No.180 主の招きを断るのはなぜでしょう

赤ちゃんとびっくり犬

ルカ14:18
ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、ご容赦ください。」

三人とも言い訳をしました

イエス様と食事をしていた客の一人が言ったのです。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と。

私たちも思うでしょう。「天の御国は、どれほど素晴らしいだろうか。早く御国に行きたいものだ」と。

しかし、果たして、本当に心の底から、そのように願っているでしょうか。実際のところ、私たちの心を満たしているのは何でしょうか。

ルカ14:16~17
するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。

イエス様は、宴会に招待された人たちのたとえ話をしてくださいました。

盛大な宴会に招かれた人々は「みな同じように断り始めた」と言うのです。

ルカ14:18
ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、ご容赦ください。」

一人目は「畑を買ったので、見に行かなければなりません」と言いました。

二人目は「五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです」と言います。

三人目は「結婚したので行けません」と言いました。

これは「神の国の福音」がユダヤ人以外にも与えられることを教えるたとえ話です。

けれど、私は、多くのキリストにある聖徒と呼ばれる人々にも当てはまるのではないかと思います。

三人の人は、なぜ「宴会への招き」を断ったのでしょう。

畑は、今日、見に行かなければならなかったのでしょうか。見もせずに買ったのでしょうか。しかし、もう買ったのなら、いつでも見に行けたでしょう。

五くびきの牛とは、10頭の牛のことです。それは、確かに大きな買い物でした。しかし、今日、試さなければならないのでしょうか。

結婚したから行けませんとは、話にもなりません。

彼らは、様々な言い訳をします。しかし、どんな言い訳をしようと同じです。

彼らは、世の中のことで心がいっぱいでした。彼らは「世を愛する者」なのです。

Ⅰヨハネ2:15
あなたがたは、世をも世にあるものも愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。

私たちには「御国」が約束されています。イエス様は、私たちのために場所を備えてくださるのです。

ヨハネ14:3
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

用意が整えば、イエス様は迎えに来てくださいます。

「さあ、行こう。用意ができた」と主イエスが現れてくださったとき、私たちは喜んでお従いすることができるでしょうか。

もし、私たちの心が「世の中でいっぱい」になっているならば、おそらく、イエス様の招きを見逃すことになります。

羊飼いの声は、雑音が入ると聞こえなくなるのです。

私たちは、あからさまにイエス様を否定することはないでしょう。

しかし、心の中に「畑」「牛」「結婚」を満たしてしまうなら、そんなつもりはなくても「御父への愛」を追い出すことになるのです。

「目の欲」「肉の欲」「暮らし向きの自慢」が心の中を占領するならば、そこに「御父への愛」が占める場所は無くなります。

今、あなたの心は何でいっぱいですか?

私の心は「主への愛でいっぱいです」と答えることが出来ないのならば、今一度、立ち止まり考える必要があります。

どうか、主が、あなたの心に満ちてくださいますように。

私は、主を愛します
私の心を探ってください
私は、主を待ち望みます