No.166 乳離れした子のように

子どもと犬

詩篇131:2
まことに私は 私のたましいを和らげ 静めました。
乳離れした子が 母親とともにいるように 乳離れした子のように 私のたましいは私とともにあります。

私のたましいを和らげます

「乳離れした子のように」とダビデは言いました。

「乳離れした子」とダビデが言うとき、少なくとも、母親にすがりついてはいない子をイメージしていたと思われます。つまり「乳離れした子」とは、母親の乳を必死で求めない子ということでしょう。

ダビデの「霊」は「たましい」を客観視しているようです。

ダビデの「たましい」は、必死でしがみつくこともなく、騒ぎ立てもせず、静まって、ダビデの「霊」とともにあるのです。ダビデのたましいは「乳離れした子」のように、ダビデの霊とともにあるのです。

ダビデのたましいは「何かを求めて騒ぎ立てる」ことをやめました。

私たちは「たましい」を和らげ、静めましょう。

「乳離れした子」が母親とともにいるとは、どのような状態でしょうか。

そこには、微笑ましさ、穏やかさ、喜び、楽しみ、温かさがあります。

私は、時折、自分に問いかけます。「私のたましいは、それらを持っているだろうか」と。

主は、おそらく、そのような人に語りかけてくださるのではないかと思うのです。

幼子サムエルは「乳離れ」したときから、主の家で暮らすことになりました。その可愛らしい子どもは、主の御目に微笑ましく映ったことでしょう。

幼子サムエルが、少年に成長するころ、主はその御声を聞かせてくださったのです。

私たちも「乳離れした」たましいを持ちましょう。

微笑ましく、穏やかで、喜びに満ち、楽しく、温かな「たましい」を持ちましょう。

主の御目にそのように映る人は幸いです。

主が私たちにも「乳以上のもの」を与えてくださいますように。「主の御声」を聞かせてくださいますように。

私たちは、主を待ち望みましょう。

私は、たましいを和らげ静めます
私は、ただ静まって、主を待ち望みます
主の御声を聞かせてください