【創世記16:7~8】主は私を見てくださる方です

夕暮れの虹

創世記16:7~8
主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」

逃げているところなのです

ハガルは逃げていました。そうせねばならなかったのです。逃げ出さずにはおられなかったのです。

サライの仕打ちは、とても酷いものであったのでしょう。ハガルには耐えることができなかったのです。

創世記16:6
アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライはが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

頼りにしていたアブラムは、正妻であるサライに一切を委ねてしまいました。ハガルに味方して守ってくれる存在はいなかったのです。

ハガルの人生は行き詰ってしまいました

サライに仕えるようになった時には、このようなことになるとは思ってもみませんでした。

まさか自分が「第二夫人」になって、アブラムの子を授かることになるなんて。それが、ハガルにとって嬉しいことであったのか、辛いことであったのか、私たちにはわかりません。

ただ、ハガルを取り巻く環境がまったく変わってしまったことは確かです。

今までは、ご主人様の世話をし、言いつけに従う立場でした。しかし、今は、自分を世話する者がいて、自分の用事を言いつけることができるのです。

アブラムの子を宿した彼女をみなが大切に扱ってくれました。ハガルにとっては、人生で最も注目された日々でした。

しかし、あっと言う間に転落してしまったのです。女主人のサライの逆鱗に触れてしまっからです。サライは、ハガルを苦しめました。それは、とてもひどい仕打ちであったのでしょう。

ハガルはサライのもとから逃げ去ったのです。そうして、行く当てのないハガルは泉のほとりでたたずんでいるのです。

ハガルの人生は行き詰ってしまいました。

主の使いが現れました

創世記16:7
主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。

泉のほとりでハガルはたたずんでいました。逃げて来たのはいいけれど、これからどうしようと考えていたのかもしれません。とにかく、水のあるところで休んでいたのでしょう。途方に暮れていただろうと思います。

主の使いは「荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとり」で彼女を見つけたのです。

「シュル」とは、エジプトに隣接する町の名前です。もしかすると、ハガルはエジプトに戻ろうとしていたのかもしれません。しかし、エジプトに戻ったところで、彼女には行く当てもなかったでしょう。

ハガルはかわいそうな女性です。しかし、また同時に愚かな女性でもあります。

子を授かり有頂天になって、サライを見下げるような態度を取る人です。苦しい目に会ったのは、自分の態度が悪かったせいです。

しかし、ハガルが有頂天になったのは、もとはといえばサライの計画のせいです。ハガルは、アブラム夫妻に利用された被害者であるとも言えます。

私たちはみな、ハガルのようです。

私たちは、自分が100パーセント完全に無罪であるとは思えません。確かに、自分の人生が崩れてしまったのは、自分で蒔いた種なのです。

けれど、もし、あの時、あの事がなければ、私はこのような態度はとらなかったし、罪を犯すこともなかったかもしれないと私たちは思うのです。

確かにそうです。私たちは、みな、誰かの不義の犠牲者です。ほかの人が犯した罪によって生じた悪いことに巻き込まれてしまうことはあり得ます。

私たちは、そこに解決はないと分かっていながら、やはり過去を振り返って「もし、あのとき」と考えてしまうのです。

ハガルも、そうであったかもしれません。荒野にある泉のほとりで彼女は考えたでしょうか。

「あのとき、サライ様の言う通りにしなければどうなっていただろう」

「あのとき、サライ様にあんな態度を取らなければどうなっていただろう」

しかし、どれだけ考えたとしても過去には戻れません。ただ途方に暮れてたたずむしかないのです。

彼女は見つけられました

しかし、そこに主の使いが現れたのです。主の使いは彼女を見つけたのです。

荒野の中に「泉のほとり」があるように、私たちの人生の荒野にも「泉のほとり」が必ずあります。私たちは、重い心を抱えて途方に暮れているかもしれません。誰も自分を見つけてはくれないと思う日もあるでしょう。自分の態度が自分で嫌になる日もあります。他の人の罪に巻き込まれて辛い思いをすることもあるでしょう。

しかし、私たちは期待してよいのです。何もない荒野を一人で歩くのは不安だと怯える必要はないのです。荒野には「泉のほとり」があります。そして、そこで主があなたを見つけてくださいます。

アブラムは、ハガルを探しに来ませんでした。彼女が家を出たことを知らなかったのかもしれませんが、とにかく、誰もハガルを見つけてはくれませんでした。

しかし、主の使いは彼女を「見つけた」のです。

主の使いは彼女に言いました。

創世記16:8
そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」

「サライの女奴隷ハガル」とは、少し酷な呼び方です。

主は、私たちに現実を見せられます。目を背けないようにと言われるのです。これは、時々、辛く感じます。しかし、私たちは「主とともに」現実を見る必要があるのです。

「主とともに」です。

主は、自分だけで現実を受け止めよとは言われません。

「自分で責任をとれ」「自分で始末せよ」とはサタンのセリフです。

マタイ27:4
「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」

イエス様を売ったことを後悔するユダに追い討ちをかけて死に追いやったのは「自分で始末せよ」という言葉です。

サタンは、私たちを破壊するために「自分で責任を取れ」と言うのです。

「主とともに」現実を見ることは「自分で始末」することではありません。

サマリヤの女は現実につながる過去を認めました

サマリヤの女と呼ばれる女性はイエス様と一緒に現実を認めた人です。

ヨハネ4:17~18
彼女は答えた。「私には夫はいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのはその通りです。あなたには、夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

イエス様は、彼女の現実を一緒に見てくださいました。彼女の過去を責めるためではなく、生ける水を与えるためにです。

ヨハネ4:14
しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。

彼女は、自分が「生ける水」を欲していることに気がつかねばなりませんでした。そして、そのためには現実を認める必要があったのです。

イエス様との会話によって、彼女がガラリと変わるのを私たちは見ます。人目を避けるようにして井戸に水を汲みに来ていた彼女が、自分から町の人に大声で呼びかけるのです。

ヨハネ4:29
来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

彼女の過去が、イエス様と町の人をつなぐ道具となったのです。これは、とても驚くべきことです。

サマリヤの女と呼ばれる女性は、ただイエス様の前に自分の現実を形作った過去を認めただけなのです。

ヤコブは自分を認めました

もう一つの例を考えてみましょう。

創世記32:27
その人は言った。「あなたの名は何と言うのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

ヤコブと言う名は「押しのけるもの」「かかとをつかむもの」という意味です。名前が意味する通りの人生をヤコブは送ってきました。人を押しのけ、人の足を引っ張って、生きてきたのです。

ヤコブという人は祝福に貪欲なのです。神の祝福を心から欲っするという点においては素晴らしい人です。

主は、ヤコブに祝福を与えようとしておられました。おそらく、ヤコブが生まれる前から、ヤコブを祝福しようと待っておられたのです。

しかし、ヤコブは、それを自分の力で手に入れようと懸命であったので、主は「ご自身の祝福」をすべて与えることができなかったのです。

本当の「神の祝福」を与える前に、主はヤコブと格闘をされました。そして、ヤコブのももの関節を打たれたのです。関節を外されたヤコブは足を引きずって歩くこととなりました。

その後、言われたのです。「あなたの名は何と言うのか」と。

「ヤコブです」と答えたとき、彼は自分の人生を見たのです。自分の生き様を思い起こしたのです。

ヤコブは「押しのけるもの」である自分を認めなければなりませんでした。

創世記32:28
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

ヤコブは自分の現実を認めました。押しのけるものとして生きて来た過去を認めました。

そして、そのヤコブに主は「イスラエル」という新しい名前をくださったのです。そして「あなたは、もうヤコブとは呼ばれない」と言ってくださったのです。

「押しのけるもの」としての人生は終わったのです。これからは「イスラエル」として歩むのです。イスラエルとは「神は戦う」「神と戦う」もしくは「神の王子」という意味です。

ヤコブは、もう自分で戦う人生から解放されたのです。神と争い、もものつがいを外され、神に降伏せざるを得なくなりました。

主は、ヤコブに現実を認めるように導かれました。ヤコブは自分を認め、自分の力で生きることをやめざるを得なくなりました。実は、それこそヤコブの「勝った」理由なのです。

主とともに、現実を認めるとき、そこには必ず祝福があることを覚えてください。

ハガルは現実を認めました

ハガルは、神の使いの呼びかけに、自分の現実を見ました。「サライの女奴隷」である自分を自覚したのです。

創世記16:8
そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」

「どこから来て、どこへ行くのか」という神の使いの問いにハガルは半分しか答えられませんでした。

「私の女主人サライのもとから逃げているところです」

どこから来たのかは答えられました。しかし、どこに行くのかは答えることができませんでした。ハガルには分からなかったからです。

ハガルに分かるのは「自分は女主人のサライから逃げている」ということだけでした。そして、それがハガルの現実でした。

創世記16:9
主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

どうすれば良いか分からなくなるときがあります。進むべきか退くべきか、どこに行けばいいのか、何をすればいいのか分からなくなる時があるものです。

ハガルは、そうだったのです。行く当てもない、戻ることもできない、そのような状態だったでしょう。

そのような時、神の使いが言ったのです。「あなたの女主人のもとに帰りなさい」と。

神の使いは「サライ」のもとへとは言いませんでした。ハガルが戻るのは「女主人」のもとです。それが誰であろうと、ハガルは自分の「主人」のところに戻らなければならないのです。

私たちがどうすれば良いかわからないとき、主は私たちにも導きを与えてくださいます。それは、ハガルと同じではないかもしれません。私たちはいつも「戻れ」と言われるわけではないでしょう。「進め」と言われることもあるでしょうし「留まれ」と言われることもあるでしょう。

主は問題となっていることを取り除いてくださることもありますし、問題はそのままだけれども従いなさいと言われることもあります。

主は、私たちに従いなさいと言われるとき「理由」を教えてくださらないことがあります。むしろ、理由を教えてくださらないことの方が多いと思われます。

ただやるべきことを示されるのです。ハガルの場合は「女主人のもとへ戻る」ことでした。

主は、私たちにも現実を見るようにと言われます。その問題を解決するためにではなく、自分の現実と、その現実に導いた過去を認めるようにと言われるのです。私たちは「なぜ?」を考える必要はありません。ただ、受け入れるだけです。

そして、その後で、私たちが行うべきことを示してくださいます。それは、個々のケースによって違う指示が与えられるでしょう。

しかし、共通して必ず行うべきことが一つあります。それは「身を低くする」ということです。ハガルは女主人のもとで「身を低くして」生きよと言われたのです。

身を低くするのは恵みを受けるためです。

Ⅰペテロ5:6
ですから、あなたがたは神の力強い御手にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

身を低くすることは、自分を卑下することではありません。それは、神様の御手の下にへりくだることです。

それは、主がすべてのことを御手の中に治めておられると信じることです。私たちが学ぶべきことは、神の御手に信頼することです。私たちがするべきことは、その御手の下に留まることです。

Ⅰペテロ5:7
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

主の導きに従うなら、すべての思い煩いはゆだねることができます。主の御手の下にいるならば、思い煩う必要はないのです。

主は「私を見てくださる方」です

私たちは、自分が置かれている状況をすべて理解することはできません。主は、すべての理由を明らかにしてはくださらないでしょう。しかし、主は理由を教えてくださらない代わりに「約束」を与えてくださいます。ほとんどの場合、主の命令には「約束」が伴っています。

ハガルにも約束が与えられました。

創世記16:10
また、主の使いは彼女に言った。「わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。

この約束は、アブラハムに与えられた約束に似ています。ハガルは無事に子どもを産むことができるのです。しかも、その子孫は数えきれないほど多くなると言われるのです。

創世記16:11
さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ、あなたは身ごもって男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。

主は、ハガルの子を「イシュマエル」と名づけよと言われました。イシュマエルとは「神は聞く」という意味です。

ハガルの思いを主はご存じでした。サライに苦しめられたことも知っておられます。知ったうえで、それでも戻れと言っておられるのです。

主は聞いておられます。私たちの嘆きや悲しみをすべて聞いてくださっています。すべてをご存じなのです。ゆえに、私たちはすべてをゆだねることができるのです。主は、何もかもを知ったうえで、私たちを導いておられるのです。

創世記16:13
そこで彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は「私を見てくださる方のうしろ姿を御手、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。

「エル・ロイ」とは、「私を見てくださる神」という意味です。

ハガルは、偉大な神が自分を見てくださっていることを知りました。

「私を見てくださる方」とハガルは言いました。

主はハガルを「見てくださる方」です。自分の意志では、何一つすることのできない奴隷のハガル。誰も彼女自身に目を留めてはくれません。若くて利用価値のあるものとして、サライはハガルを見ました。サライが言うのでアブラムはハガルを受け入れました。アブラムの子を身ごもったので彼女は注目されました。

しかし、誰もハガル自身に注意を払ってはくれませんでした。

けれど主はハガルにとって「私を見てくださる方」であったのです。ハガルの「苦しみを聞き入れた」と言ってくださる方なのです。

私たちは荒野を歩いているでしょうか?

苦しみを抱えて一人で歩いているでしょうか?

荒野には「泉のほとり」が必ずあります。

祈りの言葉さえ出てこない時には、どうか御言葉を開いてください。心が静まるまで、痛みが薄れるまで、神のことばをただ流し入れるのです。みことばこそ「いのちの水」です。

主は、必ず、そこであなたに出会ってくださいます。主は、あなたを見つけてくださいます。

主はあなたを「見てくださる方」です。

ハガルは「女主人」のもとに戻りました。そして、アブラムに神の使いが言ったことを話したのだと思います。

創世記16:15
ハガルはアブラムに子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。

ハガルが、神の使いの言った通り、サライのもとに戻ったのは「私を見てくださる方」に出会ったからです。

高慢な態度を取って激怒させた相手のもとに戻るのは勇気のいることです。勝手に飛び出してきたのに、今さら、どんな顔をして戻ればいいのでしょう?

しかし、それでもハガルは戻りました。

彼女は自分は「サライの女奴隷」であることを認めたのです。一人で子どもを産んで育てるのは大変であることも分かったでしょう。行く当てもない身であることも理解しました。

そのような現実は受け入れがたいものです。

私たちも、自分の現実を受け入れるのが辛いことがあります。主の指示が理解できないこともあるかもしれません。分かっていても実際に行うのが難しいこともあるでしょう。

「私を見てくださる方」に出会うことです。

「主とともに」自分の現実を見るならば、そこに新しい世界が開けるのです。

サマリヤの女のように、受け入れにくい過去さえも、他の人を主につなぐ道具として用いられるのです。

「押しのけるもの」であったヤコブさえも「イスラエル」に変えられるのです。

ハガルのように「女主人」のもとに戻る力が与えられるのです。

それは、ただ「主とともに」現実を見たことから始まったのです。

私たちの神は「苦しみを聞き入れられる神」です。私たちの神は「私を見てくださる方」です。

その他大勢のうちの一人ではなく、ただあなた自身を「見つけて」くださる方です。

「主とともに」現実を見るなら、それだけで変わることを信じてください。

主は「私を見てくださる方」なのです。

祝福を祈ります。