Ⅰヨハネ4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ある小学生の自慢話です
その小学生は言ったのです。「ぼくは養子だぞ。おまえら実子だろう。かわいそうだな。」
その子のご両親は亡くなっていて、彼は養護施設で育ったのです。しかし、ある日、その養護施設に一組のご夫婦が来られて彼に言ったのです。
「坊やを本当に愛しているから、うちの子になってね」と。
そして、彼はこう答えました。
ぼくは言ってやったのさ。「そんならなってやるよ」って。ぼくは、心から愛されているんだぞ。
イエスから目を離さないでいなさい 有賀喜一著 いのちのことば社
少年の誇りは「心から愛されていること」です。
養護施設にいた多くの子たちの中から自分を選んでくれたということが「自慢」なのです。今のご両親が「子どもになって」とお願いしてくれたことが「誇り」なのです。
「養子」であることが「選ばれたこと」であると感じさせた養親の愛は素晴らしいですね。
この話を読み返すと、私の牧師が「イエス様はあなたを愛していますよ」と教えてくれた時のことを思い出します。
私の牧師はアメリカ人ですから本当は「Jesus loves you」と言ったのです。一生懸命に日本語で話してくれたことは、実はあまりよくわからなかったけれど、英語で言ったその言葉だけが私の心にスッと入ってきたのです。
そのとき、私は言葉にはしなかったけれど、「そんなに愛してくれるなら信じてもいいな」と思ったのです。どちらかといえば「信じてあげる」という感じであったことを覚えています。神様は、そのような私でさえ喜んで受け入れてくださいました。
主は「柔和でへりくだって」おられます。私たちの神は、私たちに「わたしの子となってくれないか」と頼むこと厭われないのです。それは、驚くばかりの恵みです。
神が先に愛してくださったのです。神が先に宥めのささげ物として御子を遣わしてくださったのです。イエス様が、まず先にいのちをかけて愛を明らかにされたのです。
私たちは、なぜもっと「愛されていること」を自慢しないのでしょう。私たちは、なぜもっと「愛されていること」を喜び勝ち誇らないのでしょう。
主は、私たちを望んで「子」としてくださいました。事は人の願いや努力によるのではありません。私たちが優れていたとか、正しかったからとか、そのような理由で選ばれたのではありません。
ただ「愛された」からです。あなたが自分をどのように感じていようとも、主が「愛された」という事実は変わりません。
主が「わたしの子にならないか」とあなたを招かれたのです。あなたは、それをお受けして「神の子」という特権をいただいたのです。
主が望んで「子」としてくださったなら、何を恐れることがあるでしょう?
私の父は「全能の神」なのです。その子たちが、何に不足すると言うのでしょう?
私たちは「神の愛」をもっと誇りましょう。「神の愛」の素晴らしさをほめたたえましょう。
私は主を愛しています。
主がまず先に愛してくださったからです。
私は主に愛されていること誇りとします。