ヘブル12:16
また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。
エサウは俗悪な者と呼ばれます
ヘブル書の著者は、エサウを「俗悪な者」と呼んでいます。いったい、エサウは、そこまで言われるほどの悪事を行ったのでしょうか?
彼は何をしたのでしょう?
エサウは、猟から帰って来てヘトヘトだったのです。お腹が減って「死にそうだ」と彼は言いました。そこにヤコブの「レンズ豆の煮物」です。これは、飛びつかない方がおかしいでしょう。
お腹がすいたことが悪いのではありません。レンズ豆の煮物を欲しがったことが悪いのでもありません。長子の権利を「侮った」ことが俗悪なのです。
エサウは、主の祝福を「一杯のレンズ豆の煮物」を得るために売ったのです。彼には、それがどれほど重要なものであるか分からなかったのです。
主は、ご自分の祝福を軽んじる者を嫌われます。エサウの行いは不品行と同じように扱われています。エサウは「淫らな者」なのです。
ただ「レンズ豆の煮物」を手に入れただけのように見える行為は、主の御前に「不品行」と同等の罪であり、「俗悪な」行いなのです。これは、厳粛で恐ろしい真理です。
エサウは一時の快楽のために、永遠の祝福を手放したのです。
この世を生きるために信仰の歩みは邪魔でしょうか?
聖書を学ぶことは、この世では意味のないことでしょうか?
「天上にあるすべての霊的祝福」は、この世では何の役にも立たないと思いますか?
主の祝福を決して軽んじてはなりません。それは永遠の重い栄光をもたらすものです。一時の目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢に惑わされてはなりません。
あなたの目の前にある「魅力的なもの」は、「今」でなければ手に入らないとサタンはささやくでしょう。私たちは、自分の肉の欲に従って、聖霊の声に耳を塞ぎ、サタンの声に従いたいと思うことがあります。
けれど、覚えてください。それは、決して、あなたに満足を与えないことを。エサウは、食べて、その場は満足しましたが、また、次の日には飢えます。
そして、もっと悪いことに、彼はこの後もずっと「主の祝福」の本当の素晴らしさが分からなかったのです。肉の欲に従って歩む人に霊的な事柄は理解できません。
私たちが「一時的なもの」を見続けるなら、霊的な「近視眼」になります。そうなると、私たちには「霊的祝福」の素晴らしさが分からなくなるのです。
上を見上げましょう。私たちは「天上にあるすべての霊的祝福」をもって祝福されているのです。
一心に見つめて、決して手放してはなりません。
見つめれば見つめるほど、私たちの「霊の目」はよく見えるようになります。そうすれば、祝福の素晴らしさを、益々、味わえるようになります。
そして、「主の祝福」を喜んで見つめるあなたを、主は、益々、愛し祝福してくださるでしょう。
私は「天上の霊的祝福」を喜びます。
決して手放しません。
すべての祝福の源である方に感謝します。