Ⅱコリント6:2
神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」
見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
救いを受けるのは、今です
聖書は、はっきりと語っているのに、どうして私はそれを悟らないのでしょう。私は、時々、自分の心を誤魔化すために言います。
「きっと、いつか成るはずだから」
「いつか、みこころの時に与えられるから」
確かに、「時」は主の御手にあります。主がすべての主権を持っておられます。しかし、自分の心を正直に見るとき、何もかも包み隠さず明らかにするならば、私は、そのことを言い訳にしていることを否めません。
そうです。私は「いつか」という言葉で不信仰を誤魔化しているのです。そして、私は「あいつは繁栄の神学だ」と言われるのを恐れて妥協しているのです。
もちろん私は、自分の「思い」を言い続ければ成るとは思いません。それは、偶像礼拝に等しい教えだと嫌悪しています。欲しいものが何でも手に入るなどとは思いません。「イエスの御名」を軽々しく使いたくありません。そして、特に「豪邸」やら「高級車」やらが欲しいとも思いません。
しかし、私は人が「癒される」のが見たいのです。傷ついた人が喜び跳ね回るところを見たいのです。
使徒行伝に記されていることを体験したいのです。聖書に記されていることは、みな、今も起こる事を信じているのです。
このように祈ると「一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」と記されています。
私も、このように祈ったら「聖霊に満たされ大胆に語れる」と信じたいのです。癒やしと不思議としるしが行えると信じたいのです。
しかし、そこに不信仰が顔出して「いつかね」とささやくのです。それはサタンの働きです。
サタンは、私たちを不信仰にさせます。しかし、賢いサタンは正攻法ではやってきません。
「神様には、あなたを助ける力はないよ」と言われても、たいていの聖徒はその言葉を受け入れはしません。主には不可能なことはないと信じているからです。もちろん、私も信じています。
ですから、サタンは言います。
「神には、あなたを助ける力がありますよ。あなたは必ず助けを得るでしょう。けれど、それは今日ではありません。『いつか』必ずそれは与えられますよ」
サタンは「いつか」と言うのです。そして、私はなぜか、その「いつか」という考えをすんなりと受け入れてしまうのです。
私たちは、そろそろ気がつかねばなりません。そんな「いつか」など決して来ないということを。
信仰とは「目に見えない」ものを確信させるものです。「今すでに」得ていると確信することこそ信仰です。
「いつか」は信仰のことばではありません。それは不信仰を誤魔化すためのことばです。信仰のことばは「すでに」です。
あなたが心配したり、恐れたりする気持ちは分かります。信仰の宣言をしても現実に成らないという経験をしたならば、不安や恐れはさらに増すでしょう。
それが成らなかったのは「私の思い」を宣言していたからかもしれません。もし、そうであれば、それを認めたうえで、一分前の過去にも死んで、もう一度、信仰をもって宣言しましょう。
私たちは、聖霊様により頼み、御言葉に根差して宣言できます。
見えるところに変化はなくても、それでも「すでに」得たと信仰をもって確信します。何も感じなくても「すでに」助けはあります。
「いつか、そうなったらいいな」と言うのは信仰ではありません。
「今は見えないけれど、すでに成っている」と言うのが信仰です。
そして、その現われを待つことが忍耐であり、その日を心待ちにすることこそ本当の希望ではないかと私は思います。
それは「いつか」ではありません。偽物の希望に誤魔化されてはなりません。勇気をもって宣言しましょう。もしダメであったらと考えるのは終わりにしましょう。主がすべてのことを働かせて益とされることを覚えていてください。
見よ、今は救いの日です。
主の御手は「今」伸ばされます。主の助けは「今日」与えられます。
私は大胆に語れます。
私は救われました。
私は癒されました。
私の力は日ごとに増し加わります。