Ⅱテモテ1:12
そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分の信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
パウロは確信しています
テモテへの手紙第2は、パウロの最晩年の手紙です。パウロは自分の死期を悟っていたように思えます。遺言のような手紙です。
この時のパウロは、迫害され、仲間であった者にも見捨てられ、牢につながれ、殉教の時を待っている状態でした。
しかし、パウロは言います。
「自分の信じてきた方をよく知っており」
私たちは、自分の信じてきた方を「よく知っている」でしょうか?
「世を去る時」自分の信じてきた方を「よく知っている」と言えるでしょうか?
2世紀のスミルナの教会にポリュカルポスという監督いました。
当時の迫害はすさまじく、86歳のポリュカルポスも捕らえられ処刑されることになりました。
尋問の時、総督が彼に言ったのです。
「お前も、いい年をして自分を大事にしたらどうだ。カイサルの守護神にかけて誓えば釈放してやる。キリストをそしれば釈放してやる」
しかし、ポリュカルポスは言いました。
私は八十六年間もキリスト様にお仕えして参ったが、ただの一度たりとも、キリスト様は私に対して不正を加え給うようなことはなさらなかった。どうして私が、私を救い給うた私の王を冒瀆するようなことができようか。
使徒教父文書 ポリュカルポスの殉教 田川健三訳 講談社
ポリュカルポスにとって、イエス様は「決して不正を加え給うようなことはなさらない」方でした。
死の間際に86年間仕えてきた方のご性質を思い返し、背教の誘惑を完全に退けたのです。
彼も自分の仕えてきた方を「よく知って」いたのです。
私たちは個人的に、主を「よく知る」必要があります。主を「よく知る」ことは信仰を堅固なものにします。
「よく知る」ためには「主とともに」歩まなければなりません。
教会に出席することだけが信仰生活ではないのです。日々、「主とともに」生きなければなりません。
私たちは、主とともに住みます。主と食事をします。そうして、主と常に交わるのです。
召されるとき、私は自分がどんな状態であったとしてもパウロのように言いたいのです。
いえ、召されるときだけでなく、今も、毎日、告白したいのです。
「私は、自分の信じてきた方をよく知っている」と。
そう言うことができれば、その続きも必ず告白できるでしょう。
聖歌450番「なにゆえみ神は」を心から賛美できるでしょう。
わがより頼む主は
ゆだねたる
身とたまを
守りえたもうと
確信するなり
私たちは、まだ、この地に生かされています。この地での「主との関係」は、永遠の御国に影響します。
生かされている間、心を尽くして「主を知る」ことを求めましょう。そして、確信をもって「私は自分の信じてきた方をよく知っている」と告白しましょう。
私は主を知ることを求めます
主とともに歩みます
主のうちに生かされています