マタイ6:13
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
試みに会わせないでと祈ります
イエス様は、祈りの最後にこう祈りなさいと教えてくださいました。
「試み」とは「誘惑」とも訳せます。
日本語では「誘惑」と「試練」は、漢字が違うので区別されますが、原語では同じ単語です。
つまり「私たちを誘惑にあわせないでください」と祈っても間違いではないということです。むしろ、個人的には、その方がよい気がします。
さて、こうなると「誘惑」と「試練」の違いが気になってしまいますね。とてもよく質問されますが、私には上手く説明ができません。
ただ御言葉からハッキリと分かることが一つあります。それは、神は決して「だれかを誘惑されることはない」ということです。
主は、悪に誘惑されません。私のことを決して誘惑なさいません。主は、試練を与えられますが、誘惑はされないのです。
誘惑するのは必ずサタンです。
悪に誘惑する者がいます
さて、「試練」と「誘惑」の違いについて少し考えてみましょう。
人が最初に「誘惑」されたときのことを考えます。何でも、その出来事が最初に起こったときに一番多くの情報があるものです。
主なる神は、エデンの園の中央に二本の木を生えさせました。
「いのちの木」と「善悪の知識の木」です。
「善悪の知識の木」からは食べてはならないと言われました。これは、神の「命令」です。「律法」と呼んでもいいでしょう。そして、これが「試練」です。
神の律法は「良い」ものです。それは「悪」ではありえません。
同じように「善悪の知識の木」それ自体は「悪」ではないので、主なる神は「誘惑」のために木を置かれたのではないことになります。
なぜなら、神は「悪」に「誘惑」されることはないからです。
主は、「善悪の知識の木から食べてはならない」と言われました。その命令自体は「誘惑」ではありません。
「律法」は、良いものなので私たちに「死」をもたらしません。「死」をもたらすのは「罪」です。
主は、「善悪の知識の木から食べてはならない」と言われました。その命令自体は「死」をもたらしません。それを「食べる」ことが「死」をもたらすのです。
神は「死」をもたらすことはされないので、「それを食べると神のようになるよ。食べてごらん」とは言われません。
それを言うのはサタンです。サタンは「死にませんよ。神のようになれますよ」と言って「誘惑」したのです。
つまり、こういうことです。
サタンは、神の「試練」を使って、人を「誘惑」するのです。
主は創造主ですが、サタンは何も創造できません。サタンの「誘惑」は、神の創造された「試練」を使わなければ成り立たないという事です。
「試練」の背後には、主なる神がおられます。そして、私たちは「試練」に耐えることができます。
試練は、忍耐を生み出します。そして、その最終的な目的は「私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となる」ことです。
アダムとエバは「善悪の知識の木」を選ばないという「試練」によって、忍耐を生じさせていたのです。そして、「神の似姿」に造られた「人」は、ますます、よりいっそう「神の似姿」となっていくはずであったのだと思います。
私たちは試練によって「神の聖さ」にあずかり、イエス様に似た者とされます。それが、目的なのです。
しかし、それは、一朝一夕には完成しません。
私たちは、栄光から栄光へ、主と同じ姿に変えられている途中です。
試練は、そのために役に立ちます。
しかし、サタンは、その主の働きを妨害するために誘惑してくるのです。
エバは、確かに「欲に引かれ」ました。彼女の中には「欲」がありました。
そして、その「欲」に働きかける存在がいたことは明らかです。その働きかけこそが「誘惑」であり、「誘惑」する者はサタンなのです。
人を誘惑する者がいるのです。私たちを誘惑し、罪を犯させ、死に導く者が存在するのです。
「試練」と「誘惑」について長々と話したのは、実に、これが言いたいがためでした。
悪しき者が確実に「誘惑」してくるからこそ、イエス様はこの祈りを教えてくださったのです。
私たちは、日々、祈らなければなりません。
ダビデは戦いをやめてしまったのです
サタンの目的は、神と人との断絶です。
私たちは、御霊とともに歩み、イエス様に似た者にされます。それは、ますます、神と親しく交わるためです。
サタンは、そのようなこと絶対に許しません。私たちが、主を慕い求めるならば、確実に妨害してきます。人が神を求めることを黙って見ていることはありません。
「戦いとか物騒なことは話さないでください」と言われたことがあります。
私も、そうできればいいなと思うのです。そんなこと考えずに、静かに穏やかに、何事もなく、平穏無事に暮らしたいと本気で思っています。
「霊の戦いなどない」と無視して生きることは可能です。実際に、多くの人がそのように生きているのではないでしょうか。
しかし、いくら無視して生きたとしても、戦いがなくなるわけではないのです。戦いはあります。私たちが認めなくても、私たちは戦いの渦中にいるのです。
ダビデは、ここで誘惑に会ったのです。
「ダビデが誘惑に負けたのは女性を見続けたからだ」と言われます。もちろん、その通りだと私も思います。
しかし、私が問題にしたいのは「なぜ誘惑に負けたのか」という理由ではなく「なぜ誘惑にあったのか」ということです。
「誘惑に負けた」のは、確かにダビデが女性を見続けたからです。
では、なぜ「誘惑にあった」のでしょう?
誘惑にあわなければ負けることもなかったのです。
ダビデが誘惑にあったのは、ダビデが戦いをやめてしまったからです。
ヨアブが率いるイスラエル全軍は戦いに行ったにも関わらず、ダビデだけはエルサレムに留まっていました。
ダビデが戦いに行かなかったのには多くの理由があったのでしょう。体調が悪かったのかもしれないし、年齢的なこともあったのかもしれません。また、ダビデが行くほどの戦いではなかったのかもしれません。
それは、誰が聞いても納得するような理由であったでしょう。
しかし、問題は、戦いに行かなかったことではなく「戦いをやめた」ことなのです。
ダビデは、エルサレムに残り、夕暮れ時に床から起き上がるような生活をしていました。毎日であったかは分かりませんが、このような生活からは、まるっきり危機感を感じません。
ダビデのこの態度とバテ・シェバの夫であるウリヤの態度を比べてみれば一目瞭然です。
自分の不義を隠すために、ダビデは戦地からウリヤを呼び戻します。そして、家に帰ってゆっくりしなさいと言ったのです。
しかし、ウリヤは家に帰りませんでした。その理由を聞かれたウリヤはこう答えました。
ウリヤは、戦地を離れても戦いがあるのだということを忘れてはいません。自分は、今、戦いの最中にいるのだと理解しているのです。イスラエルの全軍は戦場にいるので、自分も家には帰らないと答えたのです。
ウリヤは、戦地にはいませんでしたが「戦いをやめて」はいませんでした。ウリヤには「イスラエルの兵士」であるという自覚がありました。
ウリヤの言葉は、ダビデの心を刺したはずです。しかし、ダビデは悔い改めませんでした。ウリヤを激戦の真正面に送り打たれて死ぬようにせよという命令を出します。そして、ウリヤは打たれて命を落とすのです。
ダビデが戦いをやめたことは多くの問題を引き起こしました。
まさに、ダビデの欲は、文字通りの死を生み出してしまいました。
目を背けても戦いは消えません
ウリヤを死に追いやったダビデは、私たちが知っているダビデとは別人のようです。ダビデは、一体、どうしてしまったのでしょう。
おそらくダビデは、戦いをやめたと同時に、「主を前にする」こともやめてしまったのだと思います。
「いつも 主を前にしています」との告白を、この時のダビデはすることができなかったでしょう。
戦わない理由など、いくらでも上げることができます。そして、それらの理由はいつも「常識的」に聞こえます。私たちの心は簡単にそれらの理由に同意します。
そして、戦いから目を背けるのです。
しかし、目を背けたからといって戦いがなくなるわけではありません。
ダビデは戦いとは無縁の生活を送っていましたが、戦いは続いていました。ヨアブと全イスラエル軍は必死で戦っていたのです。
ダビデは、ここは戦場ではないと思っていたので「誘惑にあった」のです。
もし、ダビデが戦いに行っていたら、夕暮れ時に床から起きるような生活を送ってはいなかったでしょう。戦地で、非常に美しい女性を見かけたとしても「今は、それどころではない」と考えたでしょう。また、神の箱とともに出陣しているのだという自覚があれば、自ずと身を戒めた生活を送ったでしょう。
ダビデが「誘惑にあった」のは、戦いがあるということを忘れてしまっていたからです。いえ、心の片隅では覚えていたのでしょうが、自分が「戦士」であることを忘れてしまっていたのです。
ダビデが誘惑にあったのは、「主の箱」が戦地にあるのだと思うことをやめてしまったからです。
私たちの戦いは、目には見えません。ですから、目を背けることは容易にできます。しかし、戦いがなくなったわけではないのです。敵がいなくなったわけではないのです。
私たちは「キリスト・イエスの兵士」です。救われた者は、みな「兵士」です。
これは、まさにウリヤの態度です。彼は「ダビデ王」の前に忠実でいようとしました。
ダビデは、この態度を忘れてしまったのです。自分を王とされた方を喜ばせることをやめてしまったのです。
私たちは「キリスト・イエス」の兵士であることを忘れてはなりません。そして、兵を募られた方を喜ばせるために戦うのです。
戦いは、今、ここにあるからです。
無防備ではやられてしまいます
私たちがキリストの兵士であることを認識しないなら、それは無防備であるということです。
毎日、何の備えもせずに生きているならば、敵にやられてしまうでしょう。
敵がいるのです。その敵は、だれかを食い尽くそうとしているのです。私たちは、その「だれか」になってはなりません。
戦いから目を背けているなら「神の武具」を手にとることはできません。邪悪な日はだれにでも訪れます。
私たちは、みな、敵の攻撃にさらされています。無防備でいるなら簡単に打ち負かされてしまうでしょう。そして、そのうち誘惑にあらがうこともなくなります。完全に世の中の形にはまって生きることになります。そして、それこそ食い尽くされるということです。
邪悪な日とは、迫害のようなことだけではありません。あからさまに敵対者が現れることだけではありません。
イエス様にあって経験に生きようと願うなら、私たちは迫害や困難、試練にあうでしょう。
そして、その試練を簡単に乗り越えさせようとする悪魔の誘惑にもあいます。敵は、私たちの肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に働きかけてきます。
それこそ、邪悪な日です。
私たちは邪悪な日に際して対抗できるように、しっかりと立たねばなりません。
私たちは祈る必要があります。
イエス様が教えてくださったとおり、心を尽くして祈るのです。すべての聖徒のために忍耐を尽くして祈るのです。
祈りが武器であることを忘れないでください。神の武具を身に着けて戦いに備え、そして、祈りという武器を用います。
このように考えていくと、やはり、「主の祈り」は攻撃的な祈りだと思わされます。
主の御手を求めることです
ヤベツの祈りは「かなえられた」と記されています。
それは、言い換えると「みこころにかなっていた」ということです。
ヤベツの祈りは「みこころにしたがって」いたと言えます。主がヤベツの願いをかなえられたからです。
つまり「わざわいから遠ざけ、痛みを覚えることがないように」という祈りは「みこころにかなう」のです。
主は、私たちを災いにあわせたいとは思っておられません。痛い思いをしてほしいとも願っておられません。
主が私たちに立てておられる計画は「わざわい」ではありません。主は、私たちに「平安」を与えようと願っておられます。
では、なぜ、私たちは、毎日、平安に暮らすことができていないのでしょう。
それは、もちろん、奪われているからです。
ヤベツは、主にある賢い人でした。
彼は、わざわいから遠ざかるために「知恵」を求めませんでした。「力」も求めませんでした。ヤベツは「主の御手」を求めました。「主の御手」が自分とともにあるようにと求めたのです。
そして、主は、その祈りに答えてくださいました。ヤベツの生涯は「主の御手とともに」ある生涯でした。
そして、それこそ勝利の人生の秘訣です。
ダビデも言います。
私たちは、主を呼び求めると「敵」から救われるのです。
私たちは、戦いの中に生きています。それは嫌だと思ってもそうなのです。
「兵士」ではないと頑なに拒んで、武器を取らずに生きることはできます。しかし、そうすれば「食い尽くされて」しまうでしょう。
誘惑されても、抗いもせず、すんなりと世の中の形にはまって生きることになります。もしくは、いつもイライラし、落ち込み、心配しながら生きることになるでしょう。
神の召しによって与えられる望みがどのようなものか知りたいとは思いませんか?
それならば、あなたに与えられている計画を奪われてはなりません。
戦いにあることを認識しましょう。奪われるものがあることを覚えてください。敵が食い尽くすべき獲物を狙っていることを忘れないでください。
一日たりとも「主の御手」を求めずに歩んではなりません。
「試みにあわせないで」という祈りは、主の御手を求めることです。主を呼び求めることです。
毎日、「主の御手が私とともにありますように」と心から願うことです。
主を呼び求めれば「敵から救われる」のです。
悪に誘惑する者から救われる唯一の方法は「主を呼び求める」ことです。
日々、祈りましょう。
「試みにあわせないで、悪からお救いください」と。
主は、ヤベツの願いを叶えてくださったように、必ず、私たちの祈りも聞いてくださいます。
祝福を祈ります。