マタイ6:12
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちの負債は取り除かれました
私たちは、自分の罪を赦していただくためにイエス様の十字架に行きます。そして、自分の罪を赦してくださるように必死で求めます。
私たちは、「一万タラントの負債を免除された家来」です。返済することのできない「負債」を抱えていましたが免除されたのです。
御父は、私たちを「かわいそう」に思われ、とんでもないことを計画されました。イエス様を私たちの罪のために十字架に架けたのです。
私たちの債務証書を「十字架に釘付けられ取り除いて」くださったのです。私たちを責め立てる「負債」は取り除かれたのです。
私たちは、もう借金取りに追われずにすむのです。サタンは、私たちを責め立てる根拠を失いました。今、責め立てられているように感じるなら、それはサタンの偽りに騙されているのです。
主は、完全な赦しを与えてくださいます。
「負債を猶予してやる」と言われたのではありません。「少なくしてやる」とも言われません。「月々、少しずつ返済すればいい」とも言われません。
私たちの「負債」は、完全になくなったのです。そして主は「もう思い出さない」と言われるのです。私たちは「完全な赦し」を受け取ったのです。
私たちが受け取ったのは「完全な赦し」です。そのことを決して忘れてはなりません。イエス様の血潮は、私たちを完全にきよめます。
さて、ここまでは、前回、お話したとおりです。
今回は、「完全な赦し」を受け取ったことを覚えつつ「赦すこと」について考えます。
赦さなければ赦されません
さて、イエス様のたとえ話を読みましょう。
これは、ひどい話です。
自分の負債は「一万タラント」つまり「六千万デナリ」です。そして、仲間に貸した額は「百デナリ」です。
「百デナリ」は、百日分の労賃相当だと思えば、結構な額です。100日働くのは大変ですから。しかし、「六千万デナリ」と比べれば、少額とも思えます。
免除を受けた家来は、自分の貸した「百デナリ」を見過ごすことはできませんでした。負債を負った仲間の嘆願を聞いても心は揺るぎませんでした。
「もう少し待ってください。そうすればお返しします」
これは、つい先ほど、「免除された家来」が主君に嘆願したセリフと同じです。
彼は、仲間の嘆願を聞いても「かわいそう」とは思えなかったのです。そして、彼は仲間を引いて行って「牢」に繋いでしまったのです。
それを知った主君は怒りました。
仲間を「赦さなかった家来」は、せっかくの「免除」を取り消され獄吏に引き渡されてしまいました。
つまり、このたとえ話は「赦さないなら、赦されない」ということを教えているのです。
主君が怒ったのはナゼでしょう?
主君は、家来のことを「悪い家来」と呼びました。
それは、彼が「懇願したこと」を忘れているからです。そして「あわれまれた」ことを忘れているからです。
仲間が同じセリフで懇願したのに、彼は聞く耳を持ちませんでした。自分の「負債」がなくなったことが行いによるかのようにふるまったのです。
家来が負債を免除されたのは「懇願」したことで「かわいそう」に思われたからです。
主君は家来を「あわれんでやった」と言います。そして、おまえも「あわれんでやるべき」ではないかと言うのです。
主君が家来を怒った理由は「なぜ、私はあわれんでやったのに、おまえはあわれんでやらないのか」ということです。
「あわれみ」を持たない家来に、主君は怒りを感じたのです。
そして、私たちの主なる神もまた「あわれみ」を持たず、「赦してやらない」私たちを「赦されない」のです。
「赦されること」と「赦すこと」は同じ解決方法です
「悪い家来」と呼ばれた人は、「赦される」ために「懇願」しました。主君の御前に出て「どうぞ猶予してください」と願ったのです。
しかし、「赦すため」に主君のところには行きませんでした。なぜなら、行く必要を感じなかったからです。
なぜ、自分の「当然の権利」を行使するために、主君の許可が必要なのでしょう?
その「百デナリ」は、不当な権利ではありません。正当な権利です。「貸し」があるのは事実なのです。それを「返せ」ということは「悪いこと」なのでしょうか?
私たちの多くは「被害者」つまり「傷つけられた者」として十字架を仰ぐことをしません。
「傷ついた事実」を訴えることはするでしょう。しかし、そのために「十字架を仰ぐ」ことはしないのです。
なぜなら、「仰ぐ必要を感じない」からです。
私たちは「十字架の御業」を「自分の罪のためのもの」としか認識していないからです。認めたくはありませんが、イエス様は「あの人」のためにも十字架に架かられたのです。
私たちは、自分が「加害者」つまり「罪を犯した者」として御前に出るとき、主の「あわれみ」にすがります。十字架の御業を仰ぎ、赦されたことを確信します。
そうであるならば、私たちは、「被害者」としても十字架の御業を仰ぐ必要があります。そして、十字架の御業を仰ぎ「赦すこと」を確実にするのです。
私たちは「キリストにおいて」赦されました。そして、「キリストにおいて」赦すのです。
「赦されること」も「赦すこと」も同じ方法で解決するのです。
権利を手放す必要があります
「悪い家来」と呼ばれた人は、なぜ、仲間を赦せなかったのでしょう?
それは、彼が「返してもらうこと」を「当然の権利」だと考えたからです。確かに、主君は自分の負債を免除してくれた、しかし、それとこれとは別の話だと考えたからです。
私たちは、自分の罪が赦されたことを感謝します。自分は「罪人のかしら」であったけれど赦されたと喜びます。しかし、そのことと「傷つけられたこと」を「赦す」ことは別の問題だと思います。
私たちは「別の問題」だと思いたいのです。しかし、それは残念ながら別の問題ではありません。
十字架を仰げば、それが明確にわかるでしょう。
「彼らをお赦しください」とイエス様は言われました。
私のために十字架に架けられ苦しみの最中、そう祈ってくださったのです。
しかし、覚えてください。
「彼ら」の中に「あの人」も含まれていることを。
認めたくはないけれど「私の罪」と「あの人の罪」は同時に処理されたのです。イエス様が「私」の罪だけを背負われて「あの人」の罪を残して行かれるなどということがあるでしょうか?
「私の罪」が十字架につけられたのなら「あの人の罪」も十字架につけられたのです。
私を傷つけた「あの人」が「赦し」を受け取っているかどうかは問題ではありません。
今、受け取っているのか、後に受け取るのか、もしくは受け取らないままなのか。いずれにせよ、その人がどのような状態にあっても、「イエス様が罪を負われた」と言う事実は変わりません。
十字架を仰ぎ見るとき、そこには「罪の贖い」があります。
「代価」はすでに払われました。
「完了した」とは「支払った」とも訳せます。「支払い」は「完了した」のです。
イエス様は言われます。
「あなたの代わりに払っておいたよ」
「それと、あの人の代わりにも支払ったよ」
私たちが「十字架の赦し」を受け取った瞬間、他の人への取り立ての「権利」を失います。
自分のための「代価」を受け取るならば、他の人の「代価」が払われたことも受け取らなければなりません。
ある預言者が言いました。
「私たちには傷つく権利はない」と。
少し厳しく聞こえますが、その通りであることを認めないわけにはいきません。
「赦し」を受け取るのなら「傷つく権利」を放棄せねばならないのです。
つなぐことと解くこと
「悪い家来」と呼ばれた人は「借りのある人」を「牢」に放り込みました。
彼は「牢」に放り込むことができたのです。
この聖句は、色々な場面で引用されますが、文脈から考えると「赦し」についての教えを含んでいると私は思います。
私たちは「つなぐ」ことと「解く」ことができます。
「つなぐ」なら「つながれる」のです。「解く」なら「解かれる」のです。
私たちが「赦さない」なら、私たちは、その相手と霊的に「つながれ」たままでしょう。
「赦さない」ことは、相手を「牢」につなぐことです。そして、もしそのままにするなら、私たちも「牢」につながれます。
しかし、「解く」なら霊的に「解かれる」のです。私たちは自由になります。
「米国における同時多発テロ事件」のあった年、私は「チョー・ヨンギ師」のメッセージを聞きました。
チョー師は、驚くべきメッセージを語ったのです。
「彼らを赦しなさい」
私は耳を疑いました。明らかに「テロを起こした人々」について語っておられたからです。つまり、その被害者、傷つけられた人々に向かって言われた言葉だったからです。
呆然としました。そして、思いました。私には、このメッセージは語れないと。
「傷ついた人」まさに渦中にいる人々に向かって「加害者を赦しなさい」とは、とても言えないと思いました。
しかし、主の御心は「赦すこと」なのです。
「語れない」と思った瞬間、私はいかに自分が「主のみこころ」から遠く離れているのかと思わされました。そして、自分には本当の愛がないと思い知りました。
チュー師の「赦しなさい」というメッセージを聞いて、傷が深まった人はいなかったと思います。少なくとも、私が見た限りではそうでした。
そこには「愛」が溢れていました。つまり、そこには「神の臨在」が満ち溢れていたのです。
主は、彼らを「解き放ち」たいのです。彼らは「自由」を得るために召されたのです。「苦々しさ」で敵の虜になって欲しくないのです。
主のことばを語る者は、決して自分の思いを語ってはなりません。真理が人を自由にするのです。御言葉こそ真理です。そして、必ず、聖霊ととも御言葉は語られなければなりません。
聖霊様が、御言葉を通して働いてくださるとき、そこに神の御業が現れるのです。
私たちは、まず御霊に満たされることを求めましょう。そして、言うのです。
「私のたましいよ、赦しなさい」と。
思い出してはなりません
私たちは思います。
「傷が癒えて落ち着いたら赦せばいい」と。「時間が必要だ。もう少ししたら赦せるようになるだろう」と。
しかし、実際は違います。私たちは、実は知っているのです。「赦せるようになることはない」と。
私は、まずは「傷ついた自分」を十分に慰めたいと思います。そして、「当然の権利」を「勇敢にも手放す自分」を褒めたいのです。
「ああ、主よ、私は傷つきました。しかし、見てください。私は赦しますよ。」と言うのです。
しかし、その「赦した」はずの「出来事」を何度も心の中で繰り返し映像化する自分を発見します。あの時、起こり得なかったことを想像している自分を発見します。
「こう言ってやれば良かったな」と思うのです。
「もし、こう言っていたら、あの人はどうしたかな」と想像するのです。
そうして、心の中に「自己憐憫」を飼って成長させていくのです。
神様の赦しは「完全」だと言ったことを覚えていますか?
主は「もう思い出さない」と言われました。それこそ「完全な赦し」です。私たちは「赦す」とき、「思い出す権利」を放棄しなければなりません。
時々、フッとよみがえる思いではなく、自分で「自己憐憫」を飼い慣らすことを放棄するのです。
サウル王の失敗の一つは自己憐憫を飼い慣らしたことだと私は思います。
サウル王は「だれも私のことを思って心を痛めること」をしないと嘆いています。確かに、サウルは辛かっただろうと思います。私は、かなりサウル王には同情的です。とても気持ちが分かるからです。
「だれも自分の気持ちなど分からない」
「だれも自分の痛みを気遣ってくれない」
「私のことを思ってくれない」
「どうして自分ばかりこのような目に遭うのか」
私たちは、多かれ少なかれ、このように思うことがあります。
実際に「不当なこと」や「酷いこと」は起こります。言葉を失うような出来事に耐えている兄姉には、何と声を掛けたらよいか分かりません。
しかし、それでも「自己憐憫」を増長させるわけにはいかないのです。いつまでも「覚えていること」を放棄せねばならないのです。
赦さない心は、人を滅ぼします。ダビデを執拗に追い続けたサウルの心は壊れてしまったではありませんか。
第二次世界大戦の後、オアランダに設けられた施設でのことをコーリー・テン・ブームが語っています。
わたしはこれを日々の経験として知っていた。
主のための放浪者 コーリー・テン・ブーム著 いのちのことば社
わたしは戦争の終わったあと、オランダで、ナチの残虐行為の犠牲者のために施設を設けていた。
以前の敵を赦すことのできた人々は、外の世界へ帰り、身体的な痛手にかかわらず、生活を立て直すことができた。
いつまでも心に悲しみをいだいている者は病人になった。
それは、実に単純で恐ろしいことであった。
私たちは、自分の心を解き放ちましょう。縛りつけてはなりません
二つの祈りを一つとして教えてくださったイエス様に感謝します。
主は、私たちに「自分の罪が赦されて思いだされないこと」を教えてくださいます。同時に、人の「負い目を見続けてはならないこと」も教えてくださっているのです。
赦しとは感情ではありません。しかし、感情は必ず癒されます
「コーリー・テン・ブームの証」をもう一つさせてください。
敬愛するコーリーが自分を苦しめたドイツの教会で「赦し」についてのメッセージをした時の話です。
「赦し」のメッセージの後、一人の男性がコーリーに近づいてきました。
彼はコーリーのことを覚えてはいませんでしたが、コーリーの方はよく覚えていました。彼は、ラベンズブルックという収容所の看守の一人でした。コーリーの記憶によると、最も残酷な看守の一人でした。
一瞬、コーリーは過去に戻ってしまいました。
この看守であった男の前を、裸で通り過ぎなければならなかった恥辱と、姉のベッツイーの痩せた肋骨を思い出しました。劣悪な収容所での残酷な日々がよみがえったのです。
その男性は、とうとう、コーリーの近くに来ました。彼は、戦後、救われてクリスチャンになりました。そして、自分の収容所にいた女性に謝罪したいと言いました。
そして、イエス様が自分の残虐な行為を赦してくださっていることは知っているけれど、「あなたの口からも赦しが聞きたい」と彼は言ったのです。
しかし、「赦し」について流暢に語っていたはずのコーリーは固まってしまいました。血が凍るような思いだったと言います。
ここから少し引用します。
わたしはなおも、冷たい心のままで立っていた。しかし、赦しは感情ではないことを知っていた。赦すことは意志の行為である。
主のための放浪者 コーリー・テン・ブーム著 いのちのことば社
心の動きはともあれ、意志は行動に表せるはずである。
「イエス様、お助けください!」
声もなくわたしは祈った。「わたしは手を出すことはできます。それだけはできます。どうぞ感情をお与えください。」
そして、わたしは差し出された手に、ぎこちなく、ただ機械的に自分の手を投げた。
信じられないことが起った。まるでわたしの肩に電流が流れ出したかのように、それは腕を伝って走り、わたしの握手した手にあふれ出した。
そして、このいやしの暖かみは、わたしの全存在にみなぎるように思われ、ついにわたしの目に涙となってあふれた。
「兄弟よ、わたしは赦します。」と叫んだ。
「心から赦します。」
長い間、以前の看守と囚人は互いの手を取り合っていた。
わたしはその時ほど、神の愛を強く感じたことはなかった。そして、決してそれがわたしの愛ではないことを悟った。
「赦し」は感情ではありません。それは「意志」です。
私たちは「負い目のある人を赦します」と言わなければなりません。それは「傷ついた」事実を隠してしまえということではありません。
「傷つけられた」という自覚を持って「赦す」のです。
「手を出すことはできます」
そこに「感情」が伴っていなくても、それでも「赦す」と宣言することはできます。
しかし、矛盾しているようですが、それは「自分の力」では不可能でしょう。
十字架を見上げることです。
私たちは「赦し」を得た方法を思い出さなければなりません。
「恵みのゆえに、信仰によって」私たちは救われました。
同じように「恵みのゆえに、信仰によって」私たちは「赦せる」のです。
「イエス様が、あの人のために十字架で代価を払われたことを信じます。すでに罪の代価は支払われています。私には負債を取り立てる権利はありません。」
そのように告白することです。そこに、必ず、聖霊様が働かれます。
超自然の「愛」を私たちは体験します。
確かに「赦すこと」に感情は必要ありませんが、あなたが赦すとき、あなたの「感情」も癒されると私は信じます。
コーリーが「手を差し出したとき」聖霊の愛が注がれました。「赦された男性」も癒されたでしょうが、明らかに「癒された」のはコーリーの方です。
聖霊の圧倒的な愛を体験したのは「赦した人」の方です。
コーリー・テン・ブームのこの経験は、過酷だと思えます。神様は、なぜ、収容所から解放された後も、この可愛らしい神のしもべに試練を与え続けるのかと思います。
しかし、彼女の「赦した」経験は、「傷つけられた」と感じる人々のために用いられています。私たちは、主には「不可能なことない」ことをこの証から学ぶことができるのです。
私たちは「赦し」の恵みの上に立ちます。そして、自分では考えられない愛によって「赦し」ます。
私たちは赦します。そして、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ります。
その豊かさは想像を超えるでしょう。
あなたの「感情」も必ず癒されます。
そして、キリストの心を持つようになります。
私たちは、日々、赦され、赦します。
それは、日ごとに、主の素晴らしい恵みに立つためです。主の計り知れない愛を経験するためです。
そうして、あなたを通して、主の癒しが溢れるようになります。
祝福を祈ります。