主の祈り⑥ 私たちの負い目をお赦しください

聖書と湖

【マタイ6:12】
私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します。

とても簡単で難しい祈りです

イエス様が教えてくださった祈りは、とても簡単なものです。

私たちは、日々、「負い目をお赦しください」と祈ります。そして、同時に「負い目のある人たちを赦します」と祈るのです。

この二つは、一つの祈りであって切っても切れない関係なのです。

イエス様は言われました。

マタイ6:14~15
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

「赦されたいなら赦しなさい」「赦すなら赦されます」とは、とても筋の通った理屈です。私たちは、まったく反論できません。

なんとも簡単で単純な祈りです。しかし、なんと難しい祈りでしょう。

さて、今回のメッセージですが、残念ながら長くなりすぎたので、2回に分けたいと思います。切っても切れないと言いつつ分けます(笑)

今日は、「罪の赦しについて」考えます。次週は「赦すこと」について考えたいと思います。

私たちの罪は赦されました

マタイ18:23
ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。

これは「天の御国」のたとえです。

まず、最初に連れて来られた人は、驚くほどの負債を負っていました。

1万タラントとは、どれほどの金額なのでしょう。

1タラントが6千デナリです。ですから、6千万デナリの負債ということですね。

1デナリが、当時の一日の労賃相当の金額です。つまり、6千万日分の労賃相当の負債です。

人によって日給は異なるでしょうから、自分に当てはめて考えてみてください。いずれにせよ、莫大な金額であることは間違いありません。

もちろん、そのような負債を返せるわけがありません。連れて来られた家来も、まったくのお手上げ状態です。

マタイ18:25
彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物をすべて売って返済するように命じた。

主君の命令はもっともです。おそらく、ずべてを売り払っても返済額には満たないでしょう。

これは「天の御国」のたとえであることを覚えていてください。天の御国には「清算」があるのです。私たちは、みな、御国の王に対して負債があるのです。それも、返すことのできないほどの負債を抱えているのです。

その負債が払えない場合、私たちは「自分自身」を失います。つまり「返済」するか「滅びる」かの二択です。しかし、返済することは不可能なので、実際は「滅びる」しかないのです。

マタイ18:26~27
それで、家来はひれ伏して主君を拝し、「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします。」と言った。家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

この家来は借金の常習者ですね。私は、これと同じセリフを何度も聞いたことがあります。だいたい、こういうことを言う人は簡単に土下座します。そして、絶対に返しません。

それは、主君もわかっていたと思います。この家来に返済能力がないのは一目瞭然です。しかし、主君は家来の負債を免除するのです。

その理由はただ一つ「かわいそうに思った」からです。

哀歌3:22
実に、わたしたちは滅び失せなかった。主のあわれみは尽きないからだ。

「あわれみ」が負債を免除させたのです。莫大な負債は「あわれみ」によって赦されるのです。私たちの罪がどれほど深みにまで及んでも、どれほど大きなものであっても、主のあわれみは尽きることがありません。

御父の愛は明らかです

「かわいそう」と主は思われる方なのです。主は、私たちを「かわいそう」だと思ってくださったのです。主から離れて、自分勝手な道を歩んできた私を「かわいそうに」と思ってくださったのです。

そして、その返済不可能な負債を免除する方法を考えてくださったのです。その方法が十字架です。誰が、そんな方法を考えることができるでしょう?

イザヤ53:8
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きの罪のゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。

「だれが思ったことか」とイザヤは言います。もちろん答えは「だれも」です。誰一人として、まさか神ご自身が人となられ、その身に背きの罪を負い、ご自身が打たれ、地から絶たれるなどと考えもしませんでした。

なぜ、御父は御子イエスを十字架に架けられたのでしょう。それは、私たちを「かわいそう」に思われたからです。

エペソ2:4~5
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

主のあわれみは豊かで尽きることがありません。主は、私たちを愛してくださるのです。

ローマ5:8
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

十字架には「神の義」が啓示されています。それは「罪」に対する神の怒りです。本来ならば、私たちが受けるべき苦しみが啓示されているのです。

しかし、私たちは、そこに別の人が架かっているのを見ます。その方は「罪のない方」です。苦しむ必要など、これっぽっちもない方です。弱く、不敬虔で罪人で、敵であった私のために十字架は用意されたのです。

しかし、イエス様が「わたしが代わろう」と言ってくださったのです。弱く、不敬虔で罪人で、敵でさえあった私のために身代わりとなられたのです。

私たちは、そのキリストに御父の愛を見るのです。

ローマ8:32
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょう。

神の愛を疑う理由は、どこにも見つけられません。疑う余地はないのです。「キリストが私たちのために死なれたことによって」それは明らかなのです。

罪はきよめられています

Ⅰヨハネ1:7
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

私たちは、イエス様の血によってきよめられています。

では、なぜ、日々「私たちの負い目をお赦しください」と祈らなければならないのでしょう。

ヨハネ13:10
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外には洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」

イエス様は弟子たちの「全身がきよい」と言われました。「足以外は洗う必要がない」とも言われました。言い換えれば「足は洗いなさい」ということです。

私たちは「イエスを主と告白し」救われました。その瞬間、すべての罪が赦されました。御子イエスの血は、私たちをすべての罪からきよめてくださいました。

しかし、同時にヨハネは言います。

Ⅰヨハネ1:8
もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。

日々の歩みの中で、私たちは多かれ少なかれ罪を犯してしまいます。不平不満を言ったり、人を悪く思ったりします。つまり、全身はきよいけれど、足は汚れるということです。

「私たちの負い目をお赦しください」とは、ルカの福音書では「罪」となっています。

ルカ11:4
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。

私たちは、日々の罪を認める必要があります。罪がないと言うことはできません。そう言うなら私たちの内に真理がないことになります。

Ⅰヨハネ1:9
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

私たちは、示された罪を告白します。それは、毎日、継続して行うことです。

どうぞ、誤解しないでください。

これは「救いのやり直し」ではありません。全身の洗い直しではないのです。日々の告白は「足を洗う」ことです。

それは、私たちの行く道を修正することです。「私は、主の小道を歩んでいるだろうか?」と問うことです。

傷のついた道があるかないかを調べます

日々の罪の告白は、自分で自分のあら捜しをすることではありません。「罪がないわけがない」といって血眼になって心をかき回す必要はありません。

イエス様は、罪悪感を抱かせるために祈りを教えられたのではないのですから。

詩篇139:33~34
神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。
私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。

罪とはギリシャ語では「的外れ」と言う意味であることは有名です。「的外れ」な人生ほど、もったいないことはありません。

どれだけ一生懸命にやっていても、「的外れ」であれば無駄な努力です。そうならないために日々の軌道修正が必要なのです。主の道から「外れていないか」を確認してください。「思い煩い」も罪です。それは、すべてを委ねていないことです。

聖霊様に心を開き、聖霊様に探っていただくのです。

私たちが自分で探っても、それは信用できません。サタンは、自分で心を探ることを利用してくるでしょう。

「こんなことをしてしまった」という罪悪感をいつまでも抱かせます。自分はダメだと思わせます。

また「そんなこと罪ではないよ。それは弱さでしょう」と罪を認めさせません。

しかし、聖霊様は私たちを正しく導いてくださいます。また、同時に、とりなしもしてくださいます。

ローマ8:27
人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒のためにとりなしてくださるからです。

ですから、私たちは示されたことを認めて告白することを恐れてはなりません。主は、探られる方ですが、とりなす方でもあります。私たちの神は、本当に配慮の行き届いた方なのです。

赦されていることを確信する

「負い目をお赦しください」との祈りは、「確認」でもあります。

それは「立場」の確認であり「手段」の確認です。私たちは「罪赦された罪人」ではありません。「罪を赦された」のなら、もはや「罪人」ではありません。

私たちは「罪人」でした。しかし、今は「聖徒」です。

Ⅰコリント1:2
コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

パウロは、コリントにある教会の人々を「聖徒」と呼んでいます。コリント書を読めば明らかですが、彼らは「問題のある」教会です。

賜物についての混乱や、分裂分派などの問題を抱えていました。ねたみ、そねみ、争いの中にあって、パウロに「まだ肉の人」だと叱責されているのです。

それでも、パウロは彼らを「聖徒」と呼びました。

それは彼らが「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ」たからです。行いによるのではないのです。「キリスト・イエスにあって」なのです。

私たちは、間違った告白をしないようにしましょう。

「私なんて、まだまだ罪人です、聖徒なんてとんでもない」これは、謙遜に聞こえますが高慢です。

「聖徒」には「なる」のではなく「される」のです。

「しょうがないよ、私たちは罪人なんだもの、完璧にはなれないよ」これも、間違った認識です。

私たちは「罪人」ではありません。もし、あなたが「罪人」ならば、まだイエス様を主と告白していないのです。

「いや、私はイエス様を主と告白したし、十字架の身代わりを信じているし、罪も悔い改めた」と言うなら、あなたは「罪人」ではないのです。

あなたの自己認識が「罪人」なら、あなたはいつまでも「罪人」です。時々、良い行いをする「罪人」です。

しかし、覚えてください。「罪人」は「天の御国」には入れません。私たちが「天国人」であるなら「罪人」ではあり得ません。

私たちは、罪を犯してしまうこともある「聖徒」です。

そして、「聖徒」はみな、「足の洗い方」を知っているのです。

エペソ2:8~9
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それは、あなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることがないためです。

救われたのが「恵みのゆえに信仰によって」ならば、救われた後の歩みもずっと同じです。「恵みのゆえに信仰によって」私たちは歩みます。

「私たちの負い目をお赦しください」と祈る時、私たちは、もう一度、自分の「立場」と「手段」を確認するのです。

私たちの罪は赦されました。日々の汚れは洗われます。私たちは「聖徒」です。そして、「恵みのゆえに信仰によって」受け取ります。

毎日、受け取ります。この祈りは「赦されている」ことを確認するための祈りです。

主の赦しは完全です

イザヤ43:25
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

主は、私たちの背きの罪をぬぐい去るだけではありません。それを、「もう思い出さない」と言われるのです。

これこそ、完全な赦しです。

私たちは、自分の罪を引きずることがあります。

私も、何年間も自分の犯した失敗がよみがえってきて苦しい思いをしました。問題が起こると、自分の罪の結果を刈り取っているのだと思いました。

罪悪感と言うのは、責められて苦しいのですが、そのことで「罰」を受けているよう気がして、少し気楽であるのも事実です。このように葛藤していることによって「罪を償っている気がする」のですね。

そして、それでも時が経つうちに、罪悪感も薄れてきます。何年間も辛い思いをしたので「もういいかな」と自分で許可を出すのです。

人によっては、その苦しんだ「年月」が必要であったのだと言うでしょう。

しかし、私は個人的に振り返ってみて、全くそうは思いません。とっとと「罪悪感」など捨て去って、神様の小道に戻れば良かったなと思います。

罪を犯してしまうことは、聖徒であれば「その本人」が一番辛いのではないかと思います。だからと言って、あなたは、あなた自身を罰することはできません。

それは、イエス様が「ただ一度」成し遂げられたことだからです。

主が用意された「救いの方法」以外で「罪悪感」をぬぐい去るのは「的外れ」なことです。つまり、それこそ「罪」です。

悔い改めて、元の「立場」に戻ることに「みそぎの期間」など必要でしょうか?

確かに、人によっては「支え」や「助け」が必要なことがあるでしょう。しかし、真に悔い改めた人に「罰」が必要なのでしょうか?

ヨハネ21:16
イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」イエスは言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

イエス様を三回否定したペテロに、イエス様は言われました。

「あなたは、わたしを愛していますか」

イエス様は、ペテロを叱責されませんでした。イエス様は、教え諭されませんでした。「12使徒からは、一旦離れて、やり直しなさい」とは言われませんでした。

ただ「わたしを愛していますか」と聞かれただけです。

主は、ペテロに「ご自身への愛」を確認されました。私たちが、自分に確認しなければならないことは「主への愛」です。

罪を犯して何年苦しんだかは問題ではありません。何年苦しもうと「主への愛」がなければ戻ることはできないでしょう。「罪悪感」からの解放の学びを一生懸命にしたから戻れるわけでもありません。大切なことは「主への愛」です。

ペテロがイエス様を否んだのは、ほんの数日前です。しかし、イエス様は、ご自身への愛を確認された後、すぐにペテロに使命を与えられました。

「わたしの羊を牧しなさい」と言われたのです。

回復に必要なことは「主イエスへの愛」を確認することです。私のために命を捨てられた方を見上げるなら、そこに「神の愛」を発見します。

私たちが、その愛に応答し、「主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と告白するなら回復されるのです。

主は「完全な赦し」を与えられます。人は、そこに何も付け加えることはできません。「罪悪感」も「罰」も「時間」も必要ではないのです。

もちろん、人の心が簡単に変わるものではないことを私も知っています。私たちが、神様に心を開くためには多少の時間がかかるかもしれません。

しかし、私が言いたいことは、主の側には常に受け入れる備えがあるということです。

そして、主が確認されることは、一つだけです。

「あなたは、わたしを愛していますか」

私たちの応答も、一つです。

「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」

主は、すぐさま、あなたを回復し新しい使命を与えてくださいます。

日々、確認します

私たちは、毎日、祈ります。「私たちの負い目をお赦しください」

どうか、自分の心を自分でかき回さないでください。主に示されることを認めて告白すればよいのです。主は、私たちを完全に赦してくださいます。告白した罪を再び持ち出して責めたりはなさいません。私たちは「聖徒」です。

そして、もし、自分でも赦せないような失敗を犯してしまったとしても、それでも「赦しを受け取る方法」は変わらないことを覚えてください。

イエス様の血潮できよめられないような罪はないのです。

「私たちの負い目をお赦しください」

主は、毎日、完全に赦しきよめてくださいます。私たちが「赦されない」とすれば、それは「赦していない」からです。

しかし、そのことは次回に考えましょう。一万タラントを免除された家来の続きを学びます。

今日、私たちは自分の罪が赦されていることを感謝します。主の尽きることのないあわれみに感謝します。主の愛を感謝します。

主の御名がほめたたえられますように。

祝福を祈ります。