マタイ6:10b
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
みこころを妨げるものがあります
イエス様は「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈りなさいと教えてくださいました。
「みこころ」は「天」においては妨げられることなく行われています。ですから、「みこころ」が「天で行われますように」と祈る必要はありません。
「みこころ」は「地」で「天でのように」行われる必要があるのです。
つまり、「地」に「みこころ」が成らないように妨げるものがあるということです。
「妨げる者がいる」と言ったほうが正しいかもしれません。
みこころを妨げる要因の一つは、「空中の権威を持つ支配者」や「天上にいるもろもろの悪霊」です。
これらの悪しき霊たちは見えない世界において働いています。「第二の天」と呼ぶこともあります。「第二の天」については、また機会があれば学びましょう。
主のみこころは、これらの「もろもろの悪霊」によって、私たちのところに届くのを妨げられることがあります。
それは、ダニエル書を読むと明らかです。
当時の世界帝国ペルシアの背後にサタンの部下がいたことは確実です。そして、終わりの日についての「神のことば」をダニエルに伝えるために遣わされた御使いを邪魔していたのです。
私はダニエル書が大好きです。しかし、今回は、深く学びたいのをグッと堪えて先に進みます。今は、このように「見えない世界」において妨げがあるのだということだけ覚えてください。霊の戦いに祈りが必要であることは明らかです。
さて、「みこころ」を妨げる要因はもう一つあります。
それは、「私たち自身」です。「私」という存在が「みこころ」を妨げる理由に成り得るというのは、悲しいけれど本当のことです。サタンは簡単に私たちを罠にかけて「みこころ」から離れさせてしまうのです。
今回は、「みこころ」が成らないのは「私自身」に要因があるという事実に向き合いたいと思います。
みこころを妨げる進言でした
これは厳しすぎることばです。もし、自分が面と向かって言われたらと想像すると泣けてきます。
しかし、主は、なぜ、このような厳しいことを言われたのでしょうか。
サタンは、常に「つまずかせる」者なのです。私たちは「神のことを思わないで、人のことを思う」とき、サタンにつけ込まれるのです。そして、そのようなつもりではなかったとしても、結果として「つまずかせる者」また「つまずく者」となるのです。
この場合、イエス様を「つまずかせる」とはどういうことでしょう。
イエス様は弟子たちに話されました。
つまり、ご自身の受難について語られたのです。十字架につけられて殺されるということを示されたのです。
ペテロは、イエス様の受難の予告を聞いて「とんでもない、そんなことあなたに起こるはずがない」と言ったのです。イエス様のことを思っての言葉であったでしょう。もちろん自分自身のためでもあったでしょう。
「とんでもない」とは、直訳すると「あなたにあわれみがありますよう」となります。
この直前、ペテロは素晴らしい告白をしてイエス様に褒められているのです。
イエス様は、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです」とペテロに言われました。
「こんなに素晴らしい告白をしたのに、なぜ、叱責されるようなことを言ったのか?」という人もいますが、私は「だからこそ」だと思います。
「あなたは、生ける神の御子キリストなのですよ、神のあわれみのゆえに、悪いことなど起こるはずがありません」と言う意味を込めてペテロは進言したのだと思います。
「神の御子」なのだから「苦しみに遭うはずがない」とペテロは思ったのです。しかし、私たちは知っています。イエス様は「神の御子」であったからこそ「十字架」を負ってくださったのだと。
ペテロは、「みこころ」を悟ってはいませんでした。良かれと思ってイエス様に進言しました。しかし、もし「受難」をイエス様が回避されたどうなったのでしょう?
私たちが救われることは不可能になります。御父の「みこころ」は行われないことになります。
ペテロの進言は「みこころ」を妨げることであったのです。
ペテロの弱さにサタンがつけ込みます
ペテロはイエス様の一番弟子であると言ってもいいでしょう。もしかすると、12弟子はそれぞれ自分こそ一番弟子であると思っていたかもしれませんが。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネが特別な存在であったのは間違いないでしょう。
ペテロは、イエス様を慕っていたと思います。「ご一緒なら死も恐れません」と言ったぐらいですから、本当にイエス様に従いたい気持ちはあったと思います。
しかし、彼には弱さがありました。私は彼の最大の弱さは「人のことを思う」ことであったと考えます。
そして、その弱さは常にサタンの絶好の足場となりました。「下がれ、サタン」とは、本当にサタンに命じられたのだと私は思います。このままでは、ペテロの弱さにつけ込まれてしまうからでしょう。
「人のことを思う」ことは、時には「愛のある行為」に見えます。
「主のあわれみがありますよ。あなたに悪いことなど起こりませんよ」とは、耳障りのよい優しい言葉です。
エレミヤの時代に主は言われました。
偽預言者や祭司までもが、主が告げられないことを告げていました。悔い改めなしの「平安」を語っていました。彼らは「平安」を大安売りしていたのです。「人のための預言」をしていたのです。
そのような偽預言者は、もちろん滅びます。
彼らの預言を聞いた民も「道端に放り出され、彼らを葬る者もいない」とエレミヤは預言して言いました。
これが、サタンのもたらす「つまずき」です。人の人気取りのような預言者は「つまずかせる者」で、自分はもちろん滅びますが、その預言を聞く人を「つまずかせ」同じように滅ぼすのです。
それが「神のことを思わないで、人のことを思う」結果がもたらすものです。
ペテロは、弟子の代表のような存在です。彼が与える「つまずき」の影響力は計り知れません。彼は、この点において訓練されなければなりませんでした。
人を思うことは恐れにつながります
ペテロの最大の失敗と言えば、イエス様を否んでしまったことでしょう。
サタンは、ペテロだけでなく「あなたがたを」つまり12弟子全員をふるいにかけました。そして、特にペテロの弱さは「人を思うこと」であったので、ペテロは「人によって」試されたのでしょう。
「シモン、シモン」と呼ばれたことにイエス様の優しさを感じます。まるで、「あなたがペテロ(岩)でないことは知っている」と言われているようです。
ああ、しかし、なんとペテロの弱いことかと思います。そして、そこに常に私の弱さが投影されているように感じます。
なぜペテロは「主を知らない」と言ったのでしょう。あんなにもお慕いしていた方を「知っていたら呪われてもいい」と激しく否んだのでしょう。
「人のことを思った」からです。この場合、「人のことを思う」という弱さは「人を恐れる」ことにつながりました。
「人のことを思う」ことは、時には「人を恐れる」ことになります。そして、人を恐れることは罠にかかることなのです。
サタンは「人のことを思うこと」につけ込みます。
ペテロは「人のこと思うこと」が招いた結果を知ることになりました。
「みこころがなりますように」とはどういう意味か?
「みこころがなりますように」とは、「わたしの望むようにではなく、あなたの望まれるままに」と言うことです。
つまり「私がどう感じるかではない」「人がどう思うかではない」ということです。
パウロはそれを少し難しいことばで表現しています。
「敵は思いに要塞を築く」「戦いは思いの中で行われる」と言われる通りです。
私たちは「様々な議論」を頭の中で行います。人のありとあらゆる考えが浮かぶでしょう。頭に浮かぶ「すべてのはかりごと」を取り押さえて服従させなければなりません。
これが意外と難しいのです。なぜなら、私たちは自分の動機のすべてが「不純」であるとは思わないからです。すべての動機が「神の知識に逆らって立つ高ぶり」だとは思わないからです。
ペテロのように良かれと思って言った言葉を叱責されたら不愉快に思うでしょう。もしかすると、ひどく傷つくかもしれません。「神様はナゼ?」と思うでしょう。
しかし、聖書は言います。「すべてのはかりごと」を服従させなさいと。
「良かれと思うこと以外」とは言いません。「すべてのはかりごと」なのです。「良い」か「悪い」かは関係ありません。あなたが「良い」と思うことであっても「みこころ」とは限らないからです。
イエス様は「悪い思い」を抱くことは決してなさいません。しかし、「すべてのはかりごとを取り押さえて服従」されました。
イエス様は従われました。文字通り「自分に死なれた」のです。
イエス様は「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と願われたのです。そして、そうする権威をお持ちでした。しかし、そうはされませんでした。
「わたしが望むようにではなく、あなたの望まれるままに、なさってください」と言われました。
「みこころがなりますように」という祈りは「自分の思い」を握りしめたままでは祈ることが出来ないのです。
「神のみこころ」のすべてを理解できなくても「神のこと」を思うのです。私たちは「私の望み」を手放して「みこころを望み」とします。
イエスの様のように生きること
イエス様は「下がれ、サタン」と言われたあとで、弟子たちに言われました。
つまりは、「神のことを思う」とは「自分を捨てる」ということなのだと思います。
もう少し優しく言い直せば「神のみこころ」と「自分のおこころ」を交換するということでしょうか。
弟子たちはみな、最終的にはユダを除いた全員がこのことを学んだと思います。ペテロも、後に、パウロに怒られることもありましたが学んだと思われます。それは、ペテロの手紙を読めば明らかです。
私たちは、みな、自分の「イメージ」から脱出する必要があります。
確かに「神のあわれみは尽きることがない」というのは本当です。しかし、神の子どもであれば「決して苦難にあわない」と言うのは偽りです。
サタンは、それを合体させてささやきます。「あわれみ深い方は、あなたを苦難には決して遭わせませんよ」と。そして、私たちは自分が抱いている「あわれみ」の「イメージ」に合わせて、それを受け入れてしまうのです。
ある意味において、「みこころ」を妨げているのは自分の中にある「神のイメージ」であると言えるかもしれません。
私たちは「人を思う」あまり傷つけないようにと「あわれみ」を語ります。しかし、それは決して「いいかげんな癒し」であってはならないのです。
自分に対しても同じです。安売りの福音を受け取ってはなりません。悔い改めのないところに「赦し」はありません。本当の平安は聖霊によらなければ与えられません。
本当の希望は、練られた品性が生み出すものです。主のご計画は「練られた品性が持つ希望」です。それは、決して失われることがありません。
もし、あなたが夢に破れて意気消沈しているなら、希望を見失って立ち上がれないのなら、それが安易に癒されないようにと私は願います。なぜなら、その後で、与えられる「希望」こそ本物であることを私は知っているからです。
その「希望」はもはや誰にも何にも奪い去ることはできません。「失敗」や「成功」という言葉から、あなたは解放されるでしょう。あなたはただ「キリスト、栄光の望み」と告白するようになります。
できれば「苦しみ」になんてあいたくありません。しかし、その「苦しみ」を通り抜けたとき、それを「幸せ」であったと思えるようになるのです。
まったく「みこころがなりますように」と言うのは勇気がいりますね。それは「キリストのように」なることを願うということですから。
主は「すべてを服従させる」人を求めておられます。
「私ではなくキリストが私のうちに生きている」と言う人を探しておられます。
「私の望むところではなく、あなたの望まれるままに」とイエス様のように祈る人を待っておられるのです。
みこころを解放します!
「勇気を出しなさい」なぜなら「主はすでに世に勝たれた」からです。
「みこころがなりますように」とは苦難の中にあっても「主の勝利を宣言すること」です。イエス様の勝利は「すでに確定」です。ですから私たちは、その「勝利」を苦難の中に解放するのです。
「人のことを思う」なら苦難の中で「みこころ」を解放することは出来ないでしょう。「人を喜ばせるため」「人を恐れて」語ることばに解放の力などありません。
主の祈りのうちの3つが「命令形」であることを覚えてください。それは、「宣言」です。つまり「攻撃的な告白」です。
「成れよ、みこころ!」と宣言します。
あなたの今の苦難の上に「みこころがなりますように」と祈ります。
それは、すぐに苦難から解放されることかもしれません。または、苦難の中であなたの品性が練られることかもしれません。どちらにしても「世が与えるのとは違う平安」が与えられることは間違いありません。
私は信じます。主は、あなたに計画を持っておられます。どんな状況にあっても「主の計画」が失われたり挫折したりしないことを信じます。
同じように、この国にも、この町にも、あの人にも「みこころ」があることを信じます。
一切の「思い」を服従させて祈りましょう。
「私はダメだ」と決して言わないでください。「もう用いられることはない」とあきらめてはなりません。
「この教会はダメだ」と言わないでください。「この町はダメだ」「この国はダメだ」と言ってはなりません。
「みこころ」は「天において定まっている」のです。あとは「地において」行われるだけなのです。
「これはみこころか?」「この状況はみこころか?」と悩む必要などないのです。どこでも、どんな状況であっても「みこころ」を解き放つのは、あなたの宣言なのですから。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
あなたの上に、みこころが解放されますように。あなたの宣言によって遅延していた計画が動き出しますように。
妨げている悪しき者をイエス・キリストの御名によって退けます。
主のみこころが成りますように。