【Ⅰヨハネ5:3】
神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。
神を愛することだからです
イエス様は「わたしの荷は軽い」と言われたけれど、自分の背負っているのは「重荷」だと多くの人は考えます。
なぜ、私たちの荷は重いのでしょう。
ヨハネは言います。
「命令を守る」ことは「神を愛すること」だと。
つまり、神に従うことは、神を愛することと同じであると言っているのです。
私たちは、まず「命令」を見ます。そして、自分にできるかどうかを考えます。
「とても自分には無理だ」という結論に達したとき、その「命令」は「重荷」となります。
聖会の終わりに、神の愛する子供のひとりが叫びました。彼は続いて祈りました。「でも、おお主よ、私は冷淡な者です。かたくなで、いのちがありません。不熱心です。」友人は、彼の祈りをさえぎらなければなりませんでした。「兄弟、なぜあなたはあわれな自分を見ているのですか。あなたの心が冷たく、いのちがないのはわかりきったことです。でも、あなたはイエス様の嘆き、愛、罪のための重荷とその涙を求めました。主は偽るお方でしょうか。主はあなたが求めたものをお与えにならなかったことがありますか。なぜ主のみこころから目を離して自分を見るのですか。
祈りのハイド いのちのことば社 P49
これは1909年にインドでもたれた聖会での出来事です。主に従いたいと願う聖徒のひとりが叫んだのです。
彼にとって、「キリストのように愛すること」「すべて人に福音を伝えること」は「とても自分には無理だ」と思える命令であったのです。
真面目な聖徒ほど「自分にはとても無理だ」と思い悩みます。それは、その命令を心から本気で受け留めているからです。
目を「自分」から離すのです。イエス様を見上げるのです。そして「神を愛する心」を求めるのです。
なぜ、私たちは、自分の中から「神を愛する心」が自然にわきあがると思っているのでしょう?
「ああ、自分には愛がない」「自分は不熱心だ」と嘆くのでしょう?
すべては「神から発する」のです。
「神を愛する心」でさえ「御霊」に依存していることを忘れないでください。
聖霊様は、私たちがどれほど愛されているかを示してくださるだけではありません。
その神の愛を「注いで」くださるのです。私たちは「神の愛」を注がれて感動します。喜びに満ち溢れます。感謝と賛美に溢れます。そして、「神に愛される喜び」は「神を愛する喜び」へと導きます。
イエス様は「御父が御子を愛された愛」が弟子たちのうちにあるように願っておられます。
そのために「御父の愛」を知らせてくださったのです。
イエス様が願ってくださったのです。私たちは「御父が御子を愛したような愛」をうちに与えられるのです。そのように「イエス」という方を愛せるのです。
私たちが「神を愛する」なら「神の命令」は重荷とはなりません。
主よ、御霊により愛を注いでください。
あなたを何よりも愛する愛を与えてください。