【黙示録1:9】
私ヨハネは、あなたがたの兄弟で、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であり、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた。
主が訪れられない場所はありません
ヨハネは「御霊に捕らえられ」ました。
今でこそ、パトモスは世界遺産にも登録された有名な観光地ですが、当時は犯罪者が送られる流刑地でした。水源に乏しい、日差しの強い、いばらと岩の島であったと言われます。
当時、ヨハネは90歳前後であっただろうと言われています。
そこで、「囚人」であったヨハネは、主を礼拝していたのです。
仲間が誰もいない場所でした。何もできない場所でした。これからの予定など立てることはできません。いつ解放されるのかも分かりません。このままこの島で人生が終わってもおかしくはないという状況でした。
しかし、そのような状況でヨハネは「御霊に捕らえられ」たのです。
これは、私たちにとって大いなる励ましです。主の御手が届かない場所はないということです。
主を仰ぐ者には「もう終わり」ということは決してありません。主を仰ぐ者は、決して見捨てられることはありません。主を仰ぐ者は「孤独」にはなりません。「絶望」もありません。
自分の「終わり」を自分で決めてはいけません。それは、主が定められることです。人数も状況も年齢も、主が誰かを用いるために支障になるようなことは何もないのです。
イエス様が「黙示録」を書き送るために選ばれたのは「パトモスという島」の「囚人」である「高齢」のヨハネでした。
この地に生かされている限り「御霊に捕らえられる」ことができます。それは、どこにいる誰にでも与えられる恵みなのです。
そして、「御霊に捕らえられた」なら必ず「御声」が聞こえるはずです。イエス様は、私たちに生きている限り「使命」を与えてくださいます。
どこにいる誰にでも「主のしもべ」「主のはしため」であれば「主の霊」は注がれるのです。
若者は幻を見ます。老人は夢を見ます。主の働き人であるのに年齢など関係ないのです。
あなたが、地の果てにいたとしても、谷底にいたとしても、主を仰ぐなら「御霊に捕らえられる」でしょう。
主の御声を聞くなら、どこにいても、どんな状態であっても、何歳であっても、立ち上がって応答するのです。
主があなたを用いたいと思っておられるのです。私たちは、応答するのみです。
私は主を仰ぎます。
私は主に従います。
御声に聞き従います。