No.698 キリストにあるということ

海と空

エペソ3:12
私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。

確信をもって大胆に

旧約の時代、イスラエルはシナイ山から語られる方を恐れて身震いしました。

出エジプト20:19
彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」

民はみな、雷鳴や稲妻、煙る山を目にして恐れてしまったのです。とてもではないが、神の御声など直接聞くことはできないと思いました。

ですから「神が私たちにお語りになりませんように」と懇願したのです。

これは、ある意味において「人として正常な感覚」だと思います。絶対的な存在を前に、どうして震えもせず、恐れもせず、その御声を平気で聞くことができるでしょうか。

パウロは、この旧約の神を知っていた人でした。彼は、敬虔なユダヤ教徒です。熱心な信仰者でした。その熱心によって多くの聖徒を迫害した人でした。

しかし、パウロは変えられました。

あの日、「サウロ、サウロ。なぜ、わたしを迫害するのか」とイエス様が自ら語りかけられたとき、彼の目は見えなくなりました。そして、その目が開かれた時、彼は完全に変えられたのです。

すべては「キリストにある」ことに尽きます。

「キリストにある」ことが、パウロを変えたのです。

主なる神は、至高の存在であり、人の目では見ることのできない聖なる恐れるべき方です。

しかし「キリストにある」ことが、この絶対的な存在である方を「アバ、父」と呼ぶことを可能にするのです。

「キリストにある」ことは、あなたをも変えます。

人は本来、神と親しく交わるために造られたのです。しかし、サタンによって、罪によって、本来の立ち位置を失ったのです。

イエス様は、「神との親しい交わり」を取り戻すために十字架に架かってくださったのです。

信仰によって、確信をもって大胆に神に近づきなさい。

「確信をもって」とは「深い信頼」「より頼む心」のことです。内側に揺るぎない確信をもった状態です。

「大胆に」とは、「自由さ」「オープンな態度」のことです。自由で臆することのない態度のことです。

そして「近づく」とは「接見する権利」という意味です。

あなたには、王の王に「接見する権利」が与えられているのです。しかも、そこで「自由に」語ることが許されています。もごもごと口ごもっても怒られません。楽しいこと、悲しいこと、たわいもないこと、深刻なこと、何でも話してよいのです。「大胆に」とはそういうことです。

ただ「キリストにある」ということに拠り頼みなさい。「キリストにある」ということに確信を持ちなさい。

「キリストにある」ことこそ、すべての「鍵」です。

エペソ3:12
私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。

「キリストにある」ことを覚えてください。心に刻み、ただ「キリストにある」ことに拠り頼んで歩むのです。

私は「キリストにある」者です
私は確信をもって近づきます
私は大胆に近づくことができまず