黙示録18:7
彼女が自分を誇り、ぜいたくにふけった分だけ、苦しみと悲しみを与えなさい。彼女は心の中で「私は女王として座し、やもめではない。だから悲しみにあうことはない。」といっているからである。
それは一日で…
さて、18章の続きから学んでいきましょう。
「罪」とは「積み重なるもの」なのです。
「積み重なる」とは「のりで貼り付けられたようにピッタリとくっついた」と言う意味です。決して離れない「一体となった」ということです。
大バビロンと「罪」とは切り離すことができません。それは完全にくっついていて、何層にも積み重なり、とうとう天にまで届いたのです。
彼女は罪と「もうどうにもならないほどに一体化」しています。ゆえに、主は「そこから出よ。関わるな」と命じられたのです。
主は大バビロンの不正をすべて覚えておられます。
「あなたがた」とは、おそらく「御使いたち」のことでしょう。
「彼女が支払ったとおり彼女に報いなさい」とは「彼女が支払ったとおり、彼女に払い戻せ」という意味です。
彼女は「当然の報い」を受けるのです。つまり、大バビロンは「自分の行いに応じて裁かれる」のです。
これは「正当な報酬」です。それは「感情的な裁き」ではなく「法的(律法的)な裁き」なのです。
「二倍のものを混ぜ合わせる」とは、彼女の行いが悪すぎるから「罰も二倍」という意味ではありません。
主は、大バビロンに対して「有罪」を宣告されます。彼女は「混ぜ合わせた杯」によって、多くの人をつまずかせました。ゆえに、二倍のものを混ぜ合わされるのです。
彼女は、おごり高ぶり、過度のぜいたくにふけりました。
彼女の「ぜいたく」によって「恩恵」を受けた人々もいましたが、苦しみと悲しみを味わった人もいたのです。
彼女がおごり高ぶった理由は、自分自身のことを「女王」であると思っていたからです。
彼女は「自分は女王であってやもめではない」と言っていたのです。
「やもめではない」ということは「夫」がいるということですね。
彼女は「自分は豊かにしてくれる夫を持っている。私を保護してくれる夫がいる」と思っていたのです。
彼女の「夫」は、彼女を豊かにしてくれる「何か」のことです。
イスラエルが「繁栄」を求めて諸外国により頼んだり、バアルを「私の夫」と呼んだりしたのと同じように、大バビロンも「豊かさ」をもたらすものを「私の夫」と呼ぶのでしょう。
大バビロンは豊かな都となります。しかし、その豊かさは、主なる神からもたらされたものではありません。その豊かさの背後には、反キリストのシステムがあります。そして、その背後には「竜」がいるのです。
そのような意味においては、大バビロンは「竜」を夫としていると言えるのかもしれません。
彼女は「夫」のゆえに「自分を女王である」と思い込むことができました。
サタンは、世の中のすべての財宝をもたらすことができるのです。
しかし、たとえ彼女が何を夫と呼ぼうとも、それらは、竜でさえも、神のさばきから彼女を守ることはできないのです。
それがいかに「堅固」に見えても、神以外により頼むことは「愚か」です。
「一日のうちに」ということが強調されています。
大きな都バビロンが「一日のうちに」滅びることは間違いないようです。
イザヤも、これらのことを預言しています。
滅びは、人々が「安全だ、平和だ」と言っているときに突如として襲います。
それは「神である主は、力ある方」と記されているとおり、偉大なる神の御力の現れなのです。つまり「普通の災害」ではないということです。
それは「瞬間」のことです。徐々に「衰退する」のではありません。
子を失うという「悲しみ」と、やもめとなるという「絶望」が同時に彼女を襲うのです。
ジョン・マッカーサーという聖書学者は、これは「都市のインフラと経済の瞬間的な死を意味する」と言っています。
完璧に機能していたバビロンの経済システム・供給網が神の一撃によって一瞬で崩れます。彼女の富は無価値となり、人々を養う食料供給は一瞬で止まります。災害によって都市機能が崩壊した結果、死病と飢えが蔓延します。大バビロンは、見るも無残なありさまとなり、悲しみと絶望に襲われるのです。そして、最終的に「火で焼き尽くされる」こととなります。
それはすべて「彼女をさばく神である主は、力ある方」だからなのです。
人は弱いけれど、主は強いのです
イザヤは言います。
大きな都バビロンを惑わせたのは「バビロンの知恵と知識」でした。
「知恵と知識」が「惑わせた」のです。
「惑わせた」とは、原語のニュアンスは「道から逸脱させた」「反逆させた」です。
どれだけ素晴らしい「知恵と知識」に見えても、人からでる「知恵と知識」は、人を「道から逸脱させ」「神に反逆させる」のです。
大バビロンには「世界有数の知者」が集まるのかもしれません。彼らは「豊かに、ぜいたくに」暮らす方法を会得している人々なのでしょう。自分たちの手で「安心安全」な暮らしを打ち立てる知恵と知識を持っているのでしょう。彼らはそれを「繁栄」と呼ぶだろうと思います。
「自分たちは決して揺るがされない」と彼らは言うでしょう。
昔のイスラエルのように「れんがが落ちたら切石で建て直そう。桑の木が切り倒されたら、杉の木で代えよう」などと彼らも言うでしょう。つまり「崩されたら、もっと良いものに造りかえればいい。私たちには、それだけの知恵と富がある」と彼らは考えるだろうと思うのです。
サタンは、人にそのように「ささやく」のです。
「人は強い。あなたならできる。必ず立ち直れる」とサタンは言います。
これは、一見「とても素晴らしい励まし」に聞こえますよね。聖徒であっても感動しそうになるでしょう。
けれど、これは「偽り」です。
ヤコブは言います。
これは、恐ろしい聖句ですね。上から来た知恵でなければ、それは「地上のもの」です。そして、地上のものならば「肉的で悪魔的なもの」であると言うのです。
あなたの知恵が「上から」でなく、自分からでたものならば、それは「地上のもの」です。そして、その知恵がどれほど素晴らしいものであっても、結局のところ「悪魔的なもの」なのです。
人は「弱い」のです。
「エノシュ」とは「弱さ」という意味です。セツは「人は弱いのだ」ということを知っていたのです。そして「弱さを得た」ことによって「主の御名を呼ぶ」ことを始めたのです。
カインの子孫は「力を誇示」しました。彼らは、自分の力で「思う通りに生きることができる」と思っていたのです。
終わりの日の「世の中」も、カインの時代と何ら変わることはありません。大バビロンも「自分の力」を誇り、おごり高ぶるのです。
それは、サタンの思考と同じです。
サタンの特徴は「高ぶり」です。サタンは、人々から「高ぶり」を引き出すのが上手いのです。
エバも「高ぶり」を引き出されてしまった一人です。彼女は「神のようになりたい」と思いました。自分で何でもやってみたかったのです。神に依存せず「自立」した者となりたかったのです。
「自立」と言えばよく聞こえますが、神からの「自立」とは言い換えれば「反逆」です。人は、神から自立するように造られてはいないのです。
神は「三位一体」です。お互いに「依存」しておられます。切り離すことはできません。人は「三位一体の神」に似た者として造られたのです。自立するようにではなく、むしろ「一体」となるために造られました。
パウロは、これを「私の目標だ」とは言っていません。
「今」すでに「そうなのだ」と言っているのです。つまり、これは「キリスト者の標準」であるということです。これが聖徒の「標準」つまり「普通」の姿だと言うことです。
私ではなく「キリストが生きている」とは、聖徒の「憧れ」で終わるものではありません。救われたなら、みな「生きているのは私ではなくキリストだ」と言わなければなりません。
そうでなければ、私たちは、この患難の時代をどのように生き抜くことができるでしょう?
あなたは何により頼んでいますか?
バビロンは「自分の悪」により頼みました。それは、彼女の「知恵と知識」です。そして、それが彼女を「正しい道から逸脱させた」のです。「惑わすもの」はみな「悪」です。
ソロモンの知恵は「神からの賜物」でした。彼は世界中の誰よりも賢い人でした。
けれど、私はソロモンを「残念な王」だと思っています。なぜ、彼は偶像を拝むまでに堕落してしまったのでしょう。もちろん、招き入れた「多くの妻」によってです。しかし、なぜ「世界一の知者」が愚かにも「多くの妻」をもったのでしょう。
これは個人的な意見ですが…
ソロモンは「知恵と知識の賜物」を自分だけで用いるようになったのだと思うのです。つまり、神により頼まず「賜物」を自分から出たかのように用い始めたのでしょう。世の知恵は、ソロモンに「政略結婚」を勧めたのです。その背後にはサタンがいたのだろうと私は思います。ソロモンは「知恵と知識」に惑わされたのです。
主から離れた「知恵と知識」は、人を「惑わすもの」となります。なぜなら、それは「地上のもの」であり「肉的で悪魔的なもの」となるからです。
ですから、私たちは「弱い」ことを誇りとするのです。
主の御力は「弱さ」のうちにこそ「完全に現れる」のです。
「キリストの力がおおう」とは「宿る」とも訳されます。ニュアンスとしては「幕屋ですっぽりとおおう」ということです。
主は、あなたの「弱さ」を助けてくださるのではありません。パウロの「トゲ」は抜かれませんでした。
主は、あなたの「弱さ」ごと、すべてを「幕屋でおおって」くださるのです。
私たちは「主を宿す」者です。けれど、同時に「その臨在で覆われている者」でもあるのです。
主は、あなたを「おおわれる」のだということを覚えてください。
主は、あなたの「弱さ」をおおわれます。主は、あなたの「弱さ」を贖われたのです。そして、御力を現わしてくださいます。
自分を「女王」と呼んだ「大バビロン」は、自分の「知恵と力」により頼みます。神以外のものを「夫」とし、自分の「安全」を確保できると思います。
ゆえに、彼女は「力ある方」を「さばき」という形で知ることとなります。それは、非常に恐ろしいことです。
しかし、私たちは「力ある方」を「恵み」によって知ります。
あなたは「弱い」ですか?
あなたが「弱い」ならば、主の恵みによって「キリストの力」が完全に現れるでしょう。
あなたが「弱さ」を認めて「完全に明け渡す」なら、主はあなたを「完全におおわれ」ます。
あなたが「少し自分の力を発揮してみよう」とするならば、そこには「隙間が空き」ます。主の「幕屋」から「自分の顔」をのぞかせてはなりません。主の臨在に「すっぽり」とおさまっていなさい。
キリストこそ「私の義であり知恵であり聖めです」と告白し続けなさい。
人間の「知恵と知識の結集」であるバビロンは滅びます。そこにある「富」は何の役にも立たなくなります。
女王と呼ばれた都が「一日」で崩れ去った時、その時代の人々は何を思うのでしょうか。
私たちは、自分の弱さを誇り、ただ「神の力におおわれて」生きましょう。
シャロームを祈ります。

