詩篇144:15
幸いなことよ このようになる民は
幸いなことよ 主を自らの神とする民は
幸いな人とは…
「幸いな人」について思い巡らせていたとき、素晴らしい証を読みました。
少し長いですが引用します。
義父の父は、カリフォルニアで農場を持っていた。桃、ネクタリン、柿、キウイなどを作っていた。ある時、妻の実家を訪ねた時、農場を歩いていると、父が三年目の桃の木の下で初なりの桃2個を手にして、ひざまずいて「主よ、これらの桃はあなたのものです。この木はあなたのものです。この果樹園はあなたのものです。私はあなたのものです。」と祈っていた。
小学校しか出ていない父であったが、神を礼拝することを知っていた。家族にも内緒で神を礼拝し神と交わっていた。
夏ごとにやって来るメキシコ人労働者たちを寛大に扱い、他の農場以上に賃金を支払った。相場や最低賃金を調べるのではなく。主に祈って額を決めた。2年前に召されたが、召される3カ月前に、約50年前に雇われていたメキシコ人がやって来て、父に感謝した。「あなたは、よそより高い給料をくださいました。お昼ご飯を用意してくださり、時々食事にも招いてくださいました。あなたは暑い日には、飲み物やアイスクリームを用意してくださいました。あなたは私たちに尊敬を持って接してくださいました。私は3人の息子たちをあなたのようになるように育てました。」
「2008年東海宣教会議」フランシス・シェーファー研究所所長 ジェラム・バーズ師の講演より
詩篇に学ぶ 小山大三著 岐阜純福音出版会
幸いな人とは、主を自らの神とする人です。
幸いな人とは、誰も見ていないところで、主にひざまずく人のことです。
幸いな人とは、世の型にはまらず、すべてを主に相談して決定する人のことです。
幸いな人とは、主にある寛大さを表わせる人のことです。
そして、幸いな人とは「あなたのようになりたい」と言われる人のことなのです。
「幸いなことよ」は、原文では「なんと幸いなんだろう!」という感嘆の叫びです。
原語は「אַשְׁרֵי(アシュレイ)」で、その人が「うらやましがられる状態にある」という意味が含まれます。
もっとも幸いな人とは「主を自らの神」とする人なのです。
それは「概念」ではなく「生き方」なのです。
そして、私に欠けているのは「生き方」なのだとつくづく思わされるのです。
私は、幸いな人として生きたいのです。
主よ、私はあなたのものです
主よ、あなたこそ私の神です
あなたを自らの喜びとして生きられますように

