Ⅱテモテ3:5
見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。
正しい信仰心には力が伴うのです
「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者」とは、なかなか手厳しいことばです。
「敬虔」とは「正しく敬う」「正しく畏れる」というような意味です。
私たちが、主を正しく敬うならば、その「敬虔」には「力」が伴うのです。
ここで「力」と訳されているのは、おなじみのギリシャ語「δύναμις(デュナミス)」です。
敬虔には「力」があります。それは「聖霊の力」です。
私たちが心から信じているならば、必ず「聖霊の力」が現わされるのです。
しかし、世の終わりには「聖霊の力」は否定されるとパウロは言います。
以前の新改訳では「見かけは敬虔であっても」を「敬虔の形はしていても」と訳していました。
「敬虔の形」は終わりの日まで残ります。「主を信じています」と告白し立派な教会に通い「形を保つ」人々は終わりの日まで存在するということです。
しかし、そこに「力」は伴いません。
私たちは「新しく造られた者」として、以前の古い生き方から脱出したはずです。
もう、人間的な標準でキリストを知ってはいないのです。
「人は弱い」と言い訳しながら「変化しない自分」を容認しているならば、それは「主を正しく畏れていない」ということです。
「聖霊の力」が現れない信仰生活は「敬虔の形」をしているだけです。
聖徒はみな「新しく生まれた者」です。
私たちは愛せるのです。赦せるのです。親切にできるし、忍耐もできるのです。
私たちは変われるのです。癒しを受けることができます。また、癒しを行うこともできます。心の傷も身体の痛みも癒されるのです。
私たちは喜べます。奇跡を見ることができます。豊かないのちにあふれます。
あなたの心の奥底から「生けるいのちの川」が流れて、人々を潤すことができるのです。
愛する兄弟姉妹。
「敬虔の形」なんて砕き散らしましょう。
誰かの「立派なことば」に振り回されてはなりません。「立派な儀式」も「立派なプログラム」も固執すべきことではないのです。
終わりの日には「困難な時代」がやって来ると聖書は言います。「困難な時代」とは「狂暴な時代」と訳すこともできます。
なぜなら、終わりの時代には「人々は、自分だけを愛し、金銭を愛する者」「神よりも快楽を愛する者」となるからです。「自我」を解放することを「自由」であると取り違え、神よりも「富」に仕え、神の寛容を軽んじて「楽しみ」を追求するようになります。それが「狂暴」を招くのです。
愛する兄弟姉妹。
「敬虔」には「力」が伴うのだということを私たちの身をもって明らかにしましょう。神の国は「ことば」ではなく「力」にあるのだということをこの世に現しましょう。
「心から主を畏れ敬う」ならば「聖霊の力」が現れます。
「真心から主を愛する」ならば「聖霊の力」に満ちあふれるのです。
私は、豊かないのちに満ちあふれ七千人を満腹にさせる者となりたいと真剣に願っているのです。
主よ、真心から信じます
敬虔の形を打ち砕きます
聖霊の力に帯びさせてください

