創世記4:7
もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。
それを治めなければならない
カインは、なぜアベルを殺してしまったのでしょうか。
それは、カインが「罪の手を取ってしまったから」です。
カインは、自分の行いが悪く、アベルの行いが正しかったということを「知っていた」だろうと思います。
しかし、それを「認めること」はできませんでした。
カインは、自分の「ささげ物」だって認められて当然だという主張を引っ込めることができなかったのです。
けれど、誰だってそうでしょう?
一生懸命に努力したことを全否定されたなら腹が立ちます。少しぐらい認めてくれてもいいのにと思ってしまいます。
カインには、神の恵みによる救いが納得できなかったのです。
「血の犠牲なしに神に近づくことはできない」というのは、律法が定められる前からの原則でした。それは啓示によって明らかにされたのです。ゆえに、アベルは「信仰によって」羊を献げたのです。
カインも、その啓示を知っていたと私は思います。少なくとも「知り得る立場にあった」ことは確かでしょう。
しかし、カインは「自分のよいと思う物」を献げることに固執してしまいました。カインの中には「自己義」があったのです。
「自己義」は、人を頑なにします。
あなたの土台は何ですか?
私たちの土台は、キリストでなければなりません。「いのちのことば」である神の子羊こそ、私たちの土台です。私たちは、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
そのように考えるなら、自分の過ちを認めるのは簡単なことです。人の過ちを赦すこともできるでしょう。
しかし、自己義によって生きているならば、決して自分の過ちを認めることはできません。また、人を赦すことも難しいのです。
覚えてください。
罪は「自己義」の恋人なのです。常に、戸口で「自己義」を見つめています。
カインは「自己義」を治める必要がありました。
戸口で待ち伏せている罪ではなく、振り向いて「主の御顔」を仰ぐべきでした。
「自己義」を治めるために必要なことは「難行苦行」ではありません。
自己義を治めるために必要なのは「恵み」を知ることです。「恵み」の中に身を置くことです。
そうすれば「血による贖い」を悟ることができるでしょう。「血の贖い」を土台とするならば、私たちは決して「自己義」に生きることはできません。待ち伏せている罪を嫌悪するようになるでしょう。
罪は「自己義」を支え「自己愛」を増幅させます。ゆえに、カインは大罪を犯してしまったのです。
私たちは「それを治め」ましょう。罪と手を取ってはなりません。
罪の手を取らないために、罪を打ち叩くのはやめなさい。それは、罪を見続けることと同じです。
振り返って、主の御顔を仰ぐのです。主の恵みがあなたの自己義を砕きます。
私は、何よりも誰よりも、ただ主を恋い慕うものでありたいのです。
主の恵みを教えてください
私は恵みのうちに生かされています
イエス様の尊い血を感謝します

