黙示録15:3
彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。
あなたの道は正しく真実です
さて、15章において、使徒ヨハネは「ガラスの海のほとりに立つ人々」を見たと記しています。
彼らは「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々」です。この世を死はする者に屈せず、主イエスを慕い、死に至るまで忠実であった人々です。
「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々」は、すべて神の御座の前「ガラスの海のほとり」にいます。つまり、この時、地上に残っているのは「獣とその像とその名を示す数字」を受け入れた人々だけだということです。
この箇所を読むと、私は、どうしても「出エジプト記」を思い出さずにはいられません。
ガラスの海のほとりに立つ人々は、まるで「紅海を渡ってエジプトを脱出した人々のようだ」と思うのです。
患難という海を奇跡的にわたり、この世から脱出した人々…
イスラエルが、エジプトを脱出した時のように、彼らも、主に賛美の歌を歌うのです。
彼らは「神のしもべモーセの歌」と「子羊の歌」を歌います。
「モーセの歌」とは、出エジプト記15章で歌われた勝利の歌のことでしょうか。イスラエルは、海を分けられ、エジプトを沈められた恐るべき大いなる主のみわざをほめたたえます。
また、申命記32章にも「モーセの歌」があります。
どちらの歌も、黙示録15章に「似て」いますね。
私は「どちらも」モーセの歌として天上で歌われるのではないかと思います。
しかし、ここで大切なことは「どちらが天上で歌われるモーセの歌か」を特定することではありません。正直に言うと(怒られるかもしれませんが)、個人的には「どっちでもいい」と思っています(笑)
ここで特に「モーセの歌」と言及されているのは、恐らくですが、この世の終わりの出来事は「出エジプト」に似ているからだろうと私は思うのです。
ガラスの海のほとりに立っている人々は「この世を脱出」してきたのです。主は、偉大な驚くべきみわざ」を持って彼らを御座に呼び寄せられました。
そして、彼らは宣言して歌うのです。
「あなたの道は正しく真実です」
ここで「道」とは原語では「ὁδός(ホドス)」です。それは、単に「道」ということではなく「やり方」「生き方」などを意味します。
患難を潜り抜けた人々は、主の偉大なみわざをほめたたえると同時に「その道」「その方法」「そのやり方」が「正しく、真実だ」と告白するのです。
イエス様は、地上におられたとき「モーセとエリヤ」と語り合われたことがありますよね。
「遂げようとしておられる最期」とは、直訳すると「成就しようとしている出発」です。
原語では「ἔξοδος(エキソドス )」という語が使われています。ἐκ(エク:~中から外へ) + ὁδός(ホドス:道)という構成です。
つまり「脱出の道」ということです。
イエス様は、モーセとエリヤと三人で「世からの脱出」について語っておられたのです。そして、それを十字架で成し遂げられました。
そう考えると、旧約における「イスラエルのエジプトからの脱出」とは、イエス様が成就される「この世からの脱出」の型であると言えます。
そして、もっと言うならば、この世の終わり「患難時代」の型であるとも言えるでしょう。
ですから、旧約聖書を学ぶことは大いに意味のあることなのです。主は、私たちに「これから何が起こるのか」をあらかじめ示しておられます。黙示録は「奥義を明らかにする書」です。ですから、旧約聖書に隠されていた奥義も、黙示録を通して学ぶならば明らかになるだろうと、私は信じています。
まあ、それはさて置き…
黙示録15章に描かれているのは「この世から救い出された人々」の美しい姿です。
彼らは、竪琴を奏でて、主をほめたたたえます。
これは、モーセの歌ではありません。ダビデの賛歌です。
つまるところ、モーセの歌であろうと、ダビデの賛歌であろうと、聖徒はみな「このように」歌うようになるのです。
「主の道はすべて正しい」と。
この世に生きている間、私たちには「分からないことだらけ」です。
なぜ、こんな場所に置かれたのか分からない…
なぜ、このようなことが起こったのか分からない…
私たちは時々「なぜ」という理由を探し過ぎて疲れ果ててしまいます。主は、その理由を「明確」に教えてくださることも確かにあります。けれど、ほとんどの場合、その理由は「隠されたまま」でしょう。
この世に生きている間、私たちに「その理由」が明かされることはないかもしれません。
しかし、だからこそイエス様は言われたのです。
イエス様は「わたしが道だ」と言われました。
イエス様こそ「道」「方法」「生き方」なのだと言われたのです。
あなたは、イエス様が「脱出の道」を開拓され、それを成し遂げられたことを信じますか?
イエス様が、あなたの行くべき道を先に歩まれ、すべての道を整えられたことを信じますか?
「どうすればいいのか分からない」「何が起こっているか分からない」そのように思う時には、ただ「わたしが道である」と言われた方を信じてるのです。
イエス様は「わたしが道だ」とはっきりと言われます。つまり、イエス様こそが「生き方」であり「方法」なのです。
私たちは、見える所によってではなく「見えない方を信じる信仰」によって歩みます。
あなたの門は「狭い門」でしょうか。
あなたの道は「狭い道」でしょうか。
今、あなたは「なぜ、このような道を歩まねばならないのか」と疑問に思うかもしれません。
「本当に、こんな小道が主の道なのだろうか」と不安に感じるかもしれません。
けれど、それこそ「主の道」です。
主は、あなたの道を造られました。主が、あなたを導かれます。
終わりの日、御前に立ち、すべてが明らかにされるとき…
あなたは必ず言うでしょう。また、すべての聖徒も声を合わせて言うでしょう。
「主よ、あなたの道は正しく真実です」と。
今は、分からなくても、後に分かるようになります。
ですから、今は、ただ「わたしが道である」と言われる方を信じて歩みましょう。
「行き先」も「行き方」も、主イエスが定めておられます。
私たちは、ただ従えばよいのです。
正しいさばきが明らかにされます
さて、ガラスの海のほとりに立つ人々は、続けて歌います。
地上に神の憤りが注がれる時、天において「神の聖なること」があがめられます。
神を恐れることは「知恵のはじめ」です。私たちは「神への恐れ」を知るときに「知恵」を得るのです。神への恐れを知り、神の聖なることを認めない限り「まことの礼拝」をささげることはできません。
主だけが「聖なる方」です。
聖なる方について、このまま話し続けたいという誘惑はありますが、先を急ぎましょう。
ここで、彼らが「聖なる方」をあがめているのは、その「正しいさばきが明らかになった」からです。
すべての国々の民が「御前にひれ伏す」のは、その「正しいさばきが明らかになった」からです。
人々は、みな「神のさばきが正しい」ことを認めざるを得ないのです。
主が、エジプトにわざわいを下されたとき、それは「エジプトのすべての神々」に対するさばきでした。つまり、主は「偶像礼拝の罪」をさばかれたのです。
同じように、この世界の終わりのわざわいも、究極的には「偶像礼拝の結果」なのです。
世界は「神を神としてあがめなかった罪」をさばかれます。
創造主がおられることについて、人に弁解の余地はないと聖書は言っています。
私たちは「偶像礼拝」について、もっと深刻に受け止めなければなりません。
聖徒はみな、形ある偶像を拝むことはしないでしょう。
ですから、私たちのメッセージは「心の中にある偶像」「神を一番にすること」に集中しがちです。もちろん、それはとても大切なことです。
しかし、世の中を見渡した時、あたりが「偶像だらけ」であることは否めません。
パウロは、アテネの町が偶像でいっぱいなのを見て「心に憤りを覚えた」のです。
「心に憤りを覚える」とは「心を激しく刺激する」という意味です。
偶像だらけの町は、パウロの心を激しく揺さぶったのです。そして、彼は、アテネの会堂で「激しく論じ合った」のです。そうせずにはいられなかったのでしょう。
私たちの国は、このアテネの町に似ていますね。ギリシャにも多くの偶像の神々がいます。ギリシャ神話に登場する神々は、あまりにも人間臭く、とても聖なるもとは呼べません。そして、また日本の神話の神々も同じです。日本には、日本独自の神々と呼ばれるもののほかにも多くの「外国の神々」が存在します。
愛する兄弟姉妹。
あなたは、この日本の現状を見て「心に憤り」を覚えませんか?
あなたの心は激しく突き刺されないでしょうか?
あなたの心は激しく揺さぶられはしないでしょうか?
願わくば、私の心に激しい憤りを!
ただ主なる神だけが「聖」であられ、あがめられるべき方です。「聖である」とは「区別される」という意味です。創造主であられる唯一の神が、その他の神でない偶像を並んで語られるのは決して許されるべきことではありません。
主は、ご自身の栄光を他の何ものにもお渡しになりません。今は、何も起こらないように思えても、蒔いた種は必ず刈り取ることになります。
偶像に種を蒔けば、偶像に対するさばきを刈り取ることになるのです。
ですから、私たちは目を覚ましましょう。
この国の現状を見つめて祈りましょう。今、とりなしが許されている間に、精一杯、祈りましょう。
なぜなら、誰も「とりなすことのできない時」がこの後、やって来るからです。
だれも神殿の中に入ることはできないのです
使徒ヨハネは、続けて「あかしの幕屋である神殿」を見ます。
天にある「あかしの幕屋である神殿」を使徒ヨハネは見ました。
つまり、これが「モーセが設営したもの」の本体ということでしょうか。
地上に作られた「あかしの幕屋」は、天にあるものの「写しと影」です。私たちは、地上の幕屋を学ぶことで、ほんの少し「天」を垣間見ることができます。今回は、時間の都合により、天の幕屋や、御使いの着ている光り輝く亜麻布などについては学びません。けれど、またいつか、幕屋の学びができるといいなと思います。
さて、使徒ヨハネは「実際のあかしの幕屋である神殿」を見ました。
「七人の御使い」が「七つの災害」を携えています。
彼らが「神殿から出て来た」ことに注目してください。「七つの災害」は、外側から持ち込まれたものではありません。「神殿の中」から携えられてきたのです。
つまり、この「七つの災害」は、完全に「神のみこころ」であるということです。
「四つの生き物」が、また登場しましたね。この生き物は、天において「何らかの権威」が与えられているように思えます。
「四つの生き物の一つ」が、御使いたちに「七つの金の鉢」を渡します。そして、その「金の鉢」には「神の憤り」が満ちているのです。
つまり、この時点において「七つの災害」と「神の憤り」は混ぜ合わされていないということになります。
アサフは「主の御手の杯」について記しています。
それは「混ぜ合わされた泡立つぶどう酒」だと言うのです。
ここでの「混ぜ合わされた」は、何かを混ぜて「薄める」という意味ではありません。むしろ、逆です。
イメージとしては、ぶどう酒に薬草やら香辛料やらを調合して「最強の飲み物」をつくるという感じです。最も「酔わせる力のある強力な酒」を調合したという意味です。
つまり、主の御手にあるのは「最強のぶどう酒」なのです。
この世の終わり、御使いたちは「七つの災害」を携えて神殿から出てきます。そして、四つの生き物は「七つの金の鉢」を彼らに渡します。
七人の御使いたちは、それぞれ「自分の持っている災害」と「神の憤りに満ちた金の杯」を混ぜ合わせ「最強」にするのです。
そして「その調合された最強の杯」が「地に注がれる」のです。
主のあわれみは尽きることがありません。私たちの神は愛です。
しかし、このとき、主は「義」を実行されます。
七人の御使いたちの七つの災害が終わるまで「だれも」神殿に入ることはできません。
主は「だれのとりなし」も受け入れられません。この災害が終わるまで「だれも」神殿に入ることはできないのです。
愛する兄弟姉妹。
「とりなす」ことができるのは幸いなのです。
御前にひれ伏して「とりなしの祈り」をささげることができるのは、主のあわれみのゆえなのです。
光のある間に福音を!
私たちが働ける間に、精一杯の祈りをささげましょう。
シャロームを祈ります。

