2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

No.606 どんなときにも「一言」でも、忍耐をもって祈り続けます

子犬かわいい

エペソ6:18
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

すべての聖徒のための祈り

パウロは「すべての聖徒のために祈れ」と言っています。

私は、常々「一言の祈り」を推奨しておりますが、あまり浸透していないようです(笑)

このエペソ人への手紙6:18は、まさに「一言の祈り」を提唱している箇所だと個人的には思っています。

キリストにある者は、みな、他の聖徒のために祈るべきなのです。

「どんなときも」祈るべきなのです。

文語訳では「常に」と訳されていますが、「どんなときも」の方が原語の意味をよく表していると思います。

原語では「カイロス」という語が使われています。これは「神のちょうど良い時」という意味です。

あなたが「目を覚まして」聖霊様の御声を聞くならば「ふっと」何らかの思いが湧き上がることがあるはずです。

最近、会っていない「兄弟」の顔が浮かぶこともあるでしょう。「あの姉妹は元気かな」と特定の人が気になることもあるでしょう。

ある兄弟の近況を聞いて「心を痛める」などと言うこともあるかも知れません。ある姉妹が怪我をしたなどという話を聞くかもしれません。

「どんなときにも」御霊にあって祈りなさい。

主が、示してくださったことをただ祈るのです。

パウロが、ここで言っているのはそういうことです。

私たちは「目を覚まして」いましょう。聖霊様は、目覚めている者に語られます。それは霊において目覚めているという意味です。

聖霊様が、あなたの心に語りかけられる時、それを聞き逃してはなりません。

「気のせいだ」と初めは思うかもしれません。けれど、たとえ「気のせい」であっても「間違って」いたとしても、それでも「祈らない」よりはずっとよいのです。

「どんなときでも」とは「すべての機会において」と訳すこともできます。

聖霊様は、あなたに「機会」を示しておられます。それは、あなたのためではなく「だれか」のための機会です。「気のせい」と思って「その機会」を失ってはなりません。

あなたに与えられた「ふっとした思い」「なんとなく気になること」が、誰かの祝福、守りに直結しているかもしれません。

「一言」でもいいのです。聖霊様の御声を「聞いたかもしれない」と感じたなら、その場で立ち止まって祈ってください。忍耐を持って「一言の祈り」を続けましょう。

主は、あなたの「一言の祈り」を無駄にはされません。あなたの祈りは天に蓄えられます。そして、終わりの日「よくやった。良い忠実なしもべよ」と言われる御声を聞くことになるでしょう。

愛する兄弟姉妹。

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りましょう。

どのように祈るかということも大切ですが、それよりもっと大切なのは「御霊によって」祈ることです。

何よりも「目を覚まして」いましょう。そして、一言でも「示されたこと」を祈りましょう。

一言の「御心にかなう祈り」は、多くの言葉をもって何時間もかけて「自分の思い」を述べる祈りより100倍効果があるのです。

私は祈ります
どんなときも御霊によって祈ります
目を覚ましていることができますように