エペソ6:18
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
すべての聖徒のための祈り
パウロは「すべての聖徒のために祈れ」と言っています。
私は、常々「一言の祈り」を推奨しておりますが、あまり浸透していないようです(笑)
このエペソ人への手紙6:18は、まさに「一言の祈り」を提唱している箇所だと個人的には思っています。
キリストにある者は、みな、他の聖徒のために祈るべきなのです。
「どんなときも」祈るべきなのです。
文語訳では「常に」と訳されていますが、「どんなときも」の方が原語の意味をよく表していると思います。
原語では「カイロス」という語が使われています。これは「神のちょうど良い時」という意味です。
あなたが「目を覚まして」聖霊様の御声を聞くならば「ふっと」何らかの思いが湧き上がることがあるはずです。
最近、会っていない「兄弟」の顔が浮かぶこともあるでしょう。「あの姉妹は元気かな」と特定の人が気になることもあるでしょう。
ある兄弟の近況を聞いて「心を痛める」などと言うこともあるかも知れません。ある姉妹が怪我をしたなどという話を聞くかもしれません。
「どんなときにも」御霊にあって祈りなさい。
主が、示してくださったことをただ祈るのです。
パウロが、ここで言っているのはそういうことです。
私たちは「目を覚まして」いましょう。聖霊様は、目覚めている者に語られます。それは霊において目覚めているという意味です。
聖霊様が、あなたの心に語りかけられる時、それを聞き逃してはなりません。
「気のせいだ」と初めは思うかもしれません。けれど、たとえ「気のせい」であっても「間違って」いたとしても、それでも「祈らない」よりはずっとよいのです。
「どんなときでも」とは「すべての機会において」と訳すこともできます。
聖霊様は、あなたに「機会」を示しておられます。それは、あなたのためではなく「だれか」のための機会です。「気のせい」と思って「その機会」を失ってはなりません。
あなたに与えられた「ふっとした思い」「なんとなく気になること」が、誰かの祝福、守りに直結しているかもしれません。
「一言」でもいいのです。聖霊様の御声を「聞いたかもしれない」と感じたなら、その場で立ち止まって祈ってください。忍耐を持って「一言の祈り」を続けましょう。
主は、あなたの「一言の祈り」を無駄にはされません。あなたの祈りは天に蓄えられます。そして、終わりの日「よくやった。良い忠実なしもべよ」と言われる御声を聞くことになるでしょう。
愛する兄弟姉妹。
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りましょう。
どのように祈るかということも大切ですが、それよりもっと大切なのは「御霊によって」祈ることです。
何よりも「目を覚まして」いましょう。そして、一言でも「示されたこと」を祈りましょう。
一言の「御心にかなう祈り」は、多くの言葉をもって何時間もかけて「自分の思い」を述べる祈りより100倍効果があるのです。
私は祈ります
どんなときも御霊によって祈ります
目を覚ましていることができますように

