ピリピ3:7
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
損得の計算の結果は…
パウロは、ここで「損得の計算」をしているのです。
「得であった」「損と思うようになった」ということば、どちらも「商業用語」もしくは「会計用語」と呼ばれるものが使われています。
この世の計算では、パウロの持っていたものは「得」でした。
パウロは、いわゆる「育ちの良いエリート」に属する人です。普通に生きていたならば「ボロボロ」になるようなことはあり得ないのです。
野宿をしたり、石を投げられたり、あざけられたり、罵られたりすることはなかったでしょう。
しかし、それでもパウロは言うのです。
以前は「得」だと感じていたすべてのものは、いまでは「損」だと思うようになったとパウロは言います。
計算してみた結果、自分は「ずいぶんと損だ」という答えを導き出したということです。
パウロは自分が持っていたものはすべて「ちりあくた」だと言っています。
これは、新改訳の翻訳者がかなり気を使って訳されたマイルドな表現です。実際は、当時の世界においても、かなり下品で強い言葉が使われています。簡単に言えば「ゴミ以下の汚物」と思っているという意味です。
パウロにとって「肉により頼む」ことは「汚れたもの」と同じ以上に「忌み嫌うべきこと」だったということです。
パウロの「量り」は、イエス様に出会って「変わった」のです。
世の中の基準で量っていたときには「得」であったものは、キリスト・イエスにあっては「損」となりました。
パウロは、すべてを「キリストを知ること」と比べたのです。パウロの量りは「キリスト」になったのです。
「キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさ」と比べたので、パウロは自分の「肉の誇り」に汚れさえ感じたのです。
実際、それは「比べるほどの価値さえないもの」でした。
あなたは何を握っていますか?
あなたは何を手放せないのでしょう?
あなたは何を誇っていますか?
あなたは「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」を感じているでしょうか?
私たちは、もはや「この世の基準」で生きてはいません。
「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」には、何ものも代えることはできないのです。
イエス様には代えられません
世の何ものも
主を知ることをますます増し加えてください

