ハバクク3:3a
神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。セラ
ハバクク書を例として「セラ」を学んでみましょう
「セラ」という語は、詩篇とハバクク書にしか登場しません。
けれど、ハバクク3章は「ハバククの詩篇」と呼ぶべきものですから、実質的には「詩篇」にしか登場しないと言えるでしょう。
「セラ」という語の意味は、よく分かっていません。
ある人は「これは、ここから盛り上がるための静止だ」と言います。
また、ある人は「ここで楽器が入れ替わるための静止だ」と言います。
別の人は「ここで静止するのは、歌だけで楽器の演奏は続くのだ」と言います。
つまりは、よく分からないということです(笑)
ただ、明らかなことはこれが「音楽用語」であり「静止」「休止」を指し示す語であるということです。
ハバクク3章の預言は、読むものではなく「歌うもの」であることは確かです。
「歌う」つもりで、ハバクク3章を味わうと、今まで見えなかったものが見えるかもしれません。
ハバククは、祈りの中で「急いで」いるように思えます。
主に御業が「早急に」なされるようにと願っています。
そして、ハバククは、その祈りが聞かれ「主が降りて来られる」のを見るだろうと歌います。
ここで「セラ」です。
主が山から降りて来られたならば「静止せよ」とハバククは指示しているのです。
普通であれば、主が降りて来られたのだから、ますます「急いで」「熱心に」事が行われるようにと願うものでしょう。
しかし、ここで「休止」なのです。
「主が降りて来られた」ならば、人は自分の動きを「静止」せねばなりません。
そして、ただ主の臨在だけに注目するのです。
「静止」した者にだけわかることがあるのです。
その威光が「天」をおおっていること、その「賛美」が地に満ちていること、それを体感した人は幸いです。
その人は、これから先、この天地でどんなことが起ころうとも、決して動じることはないでしょう。
「静止」「休止」は、事が「遅れる」ことを意味しません。「静止」することを恐れてはなりません。
聖書を記された「聖霊」は、意図的に「歌の途中」に「セラ」を置かれたのです。
詩篇は、神の神殿で歌われたのですから「セラ」つまり「静止」は、礼拝の一部だと言えるでしょう。
「セラ」の意味がはっきりと分からないのは「静止」には様々な状況があるからではないかと思います。
「セラ」とは「体感」するものだと私は思うのです。
「セラ」という語が出て来たならば、ぜひ、読み飛ばさずに、一度「静止」してみてください。
その前に記された「みことば」をじっくりと見つめてみてください。
そうすれば、聖霊様が「なぜ、ここで静止せよ」と言われたのかが分かります。
私たちは指示通り「静止」することが必要なのです。
主よ、私は静止します
みことばの前に静止します
主の御思いを示してください

