ローマ15:13
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。
それは聖霊の力によるのです
「信仰によるすべての喜びと平安」と聖書は言っています。
つまり「喜び」と「平安」は「信仰」によるのです。
確かに、私たちの心は「信じた」とき「ことばに言い表せない栄えに満ちた喜び」に満たされましたね。また「この世のものではない平安」にも満たされました。
「信じる」ならば、喜びが湧き上がり、恐れは消えるのです。
けれど、この聖句を注意して読みますと「希望」だけが別のくくりになっているのが分かります。
パウロは「希望」については「聖霊の力」が必要だと言っているように思えます。(もちろん信仰も聖霊によるのです)
信仰によって「救いの喜び」に満ち「恐れを克服」した聖徒であっても「希望」にあふれていないということは起こり得ます。そんなことは、あり得ないと思うかもしれませんが、実際に私自身も「希望」にあふれていないことがあるのです。
つまり、「希望」を持ってはいるけれど「あふれてはいない」という状態で信仰生活を送ることは可能だということです。
その昔、ウィリアム・ブースは言いました。(言ったと言われているが正しいです)
「失敗よ。おまえは何者か。おまえは私に何ができるか。私は転んでも起き、倒れても立ち上がる。そして、死んでもよみがえる。つまるところ、おまえは私に何をなしえるのか」
多くの「失敗」と思えるようなことの中で「希望」に満ちあふれ続けることができるのは、なぜでしょう?
「転んでも起き、倒れても立つ、死んでもよみがえる」と叫ばせる「力」はどこから来るのでしょう?
それこそ「聖霊の力」です。ここで「力」と訳されている原語は「ドュナミス」です。ダイナマイトのような爆発的な力です。「能力」と訳すこともできます。能力とは「できる」ということです。
あなたは「希望にあふれて」いますか?
かすかな希望ではありません。うっすらと期待しているというのでもありません。
希望に「満ち満ちて」いるかということです。
地面に倒れ込んでも「永遠の御国」について叫ぶことのできる力に満ちているかということです。
聖霊の「爆発的な希望」は、あなたの心にあふれているでしょうか?
「失敗」に目を向けるなら、私たちのうちから「力」が失われるのです。敵が、そのように私たちのうちに働くからです。
もうだめだ…と思うなら、聖霊を呼び求めなさい。
「希望」に満ちあふれて歩みたいなら、聖霊により頼みなさい。
聖霊のドュナミスは、あなたを希望にあふれさせることが「できる」のです。
聖霊は、あなたの目を「希望の神」に向けさせてくださいます。あなたに、はっきりと「希望の神」を啓示してくださるでしょう。
私たちは「聖霊の力によって」希望にあふれることができるのです。
主よ、あなたは希望の神です
聖霊様、私のうちに「希望の神」を啓示してください
どんな時も希望に満ちあふれさせてください

