2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

No.583 「今、行け」と言われるのは「今」だからなのです

光とともに

出エジプト3:10
今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。

今だからです

主は、モーセに「今、行け」と言われました。

モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き出さなければなりません。

主の命令に対するモーセの反応は「微妙」なものです。

出エジプト3:11
モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

モーセの返答は「従順」とはかけ離れたものです。しかし、モーセの気持ちはとてもよく分かりますよね。

確かにモーセの生涯の始まりは「奇跡」でした。水の中から引き上げられ、命が助かっただけでなく「ファラオの娘」に保護され、高度な教育を受けることができました。

使徒7:22
モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。

あの日の失敗さえなければ、もしかすると「イスラエルの救出者」としてふさわしかったかもしれない…

いや、でも、あの時だって、誰も自分を受け入れてはくれなかった…

使徒7:25
モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしていることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

同胞を助けようとして、勢い余ってエジプト人を殺してしまったけれど、内側に燃えている「使命」をイスラエルの人々は理解してくれるとモーセは思っていたのでしょう。

しかし、誰も理解してはくれませんでした。

モーセは、イスラエルに拒絶されたと思ったまま、エジプトから逃亡したのです。

主は、その一連の出来事を忘れてしまわれたのでしょうか。

確かに、以前は「主の民を思う気持ち」がうちに燃えていた…

けれど今はもう…

そのような気持ちは「カケラ」も残ってはいないのです。

なぜ、「今」なのでしょう?

奇跡的に救われたことも、たくさん学んだすべてのことも、何もかも無駄だった…

「ああ、そんなこともあったな」と言いながら人生を終えようと思っていたのに…

なぜ「今」になって「行け」などと言われるのでしょう?

それは、とても簡単な理由です。

ただ、主が「今」だと思われたからです。

自分で「時」を定めるのはやめなさい。

あなたには自分の「終わり」を決める権利はありません。

あなたを「始められた方」だけが、あなたの「時の終わり」を定められます。

あなたが生かされて「ある」限り、「今、行け」と言われる日は来ます。

あなたが「自分のすべて」が失われたと思う「その時」に…

自分の力のすべてが失われてしまったと感じる「その時」に…

主の時は、常に「夕」から始まります。私が、一生懸命に働いた「昼間」は終わります。疲れ果て、もう休もうと思う「夕方」から、主の「時」は始まるのです。

あなたが「自分の手をおろす」その時、主は、あなたにも言われるでしょう。

「さあ、今、行け。今から始めよう」

なぜ「今?」と思っても、立ち上がりましょう。苦笑いしながら、それでも進もうではありませんか。

私の時は御手の中にあります
主よ、私はあなたを信頼します
ただ主の御心のままにと祈ります