ローマ5:8
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
それは明らかな事実です
十字架には「神の義」が啓示されています。あの目を背けたくなるほどの苦しみは「神の義」の表れです。御父は「罪」を決して見過ごされません。それは、とても恐ろしい啓示です。
しかし、同時に、十字架によって「神はご自身の愛を明らか」にされました。私が、あの苦しみを見つめることができるのは、そこに愛があるからです。
先に「神の愛」があるのです。神は「まず」愛されたのです。
あなたはもっと自信を持ちなさいと、主は私に言われました。
世界の基が置かれる前から「愛され」「選ばれて」いたことを信じなさいと。
十字架のゆえに「愛された」のではない「愛した」ので十字架があるのだよと。
この単純な真理が、私の心に入ったとき、私の世界は変わりました。
大切な御子が十字架に架かったので「仕方なく」赦してくださるのではない、「仕方なく」愛してくださるのではない…
御父は、言いようもないほどに、あなたを愛しておられます。御父は、あなたを赦したいのです。ゆえに、御子に十字架を負わせたのです。
祈るときには、その真理を覚えていなければなりません。「愛されている者」として御前に出なさい。
ここが「始まり」です。「まず」神の愛から始めるのです。
「始まり」を間違えてしまうならば、その先、どれだけ「よいもの」を与えられても積み上げることは決してできません。
まず「愛された」ことから始めないならば、十字架の御業でさえ「偽善の道具」とされてしまいます。
神の愛は「完全に無条件」であることを忘れてはなりません。
「十字架」がなければ「救い」はありません。
しかし、誤解を恐れずに言うと「十字架」がなくても「神の愛」はあるのです。「愛が先」なのですから。神がまずあなたを「愛された」ので「十字架」があるのです。
ですから、自分を見て自信を失うのはやめなさい。
自分の罪を見て、不義を見て「もうだめだ」と言うのはやめなさい。
あなたは「神の愛」に自信を持ちなさい。罪人であったときに「死んでくださった方」を見なさい。
「神の愛」は明らかにされています。「神の愛」は変わりません。
主の真実の愛は、決して、あなたから移りません。それは「不変不動」です。
そして、その愛は、今「明らか」にされています。
明らかにされた「神の愛」を信じます
まず、主が愛してくださいました
神の愛から始めます

