ルカ11:10
だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
だれでも受けるのです
「だれでも」とイエス様は言われたのです。
つまり「私でも」求めるならば受け、探すならば見出し、たたくならば開かれるのです。
しかし、私は「だれでも」の中に「私」が含まれるとは思っていないようです。もちろん、信じていると言ってはいます。でも、実際に「答えを得ていない」ことからして、信じていないと判断せざるを得ないのです。
私は祈ります。主が、私の声をに耳を傾けてくださることを信じています。しかし「答えてくださる」と期待しているでしょうか。
たとえ、その返答が「いいえ」であるにしても、主が答えを拒まれず「ことば」を返してくださると期待しているでしょうか。
私の祈りは「交わり」となっているでしょうか。
祈り自体が「目的」となっていないでしょうか。
もし祈り自体が目的となっていて、ただ一方的に「何かを唱えて」いるだけなら偶像への祈りと何の変わりがあるでしょう。
偶像は「物言わぬ神」です。それは、話すことも聞くことも歩くこともできず、抱えて運ばねばならないものです。
しかし、私の神は違います。
主は「ことばの神」です。世界は「主のことば」によって造られ保たれています。イエス様は「いのちのことば」です。
私たちの神は「語られる」のです。私たちの神は「聞かれ」ます。そして「行動される」のです。
なぜ、私は「答えてくださる」と期待しないのでしょうか。
私の神は「会話する」ことがお出来にならないのでしょうか。
「だれでも」ということは、私たちの側に「条件は必要ない」ことを意味しています。私たちは「求め、探し、たたく」者であればよいのです。
祈りの答えは「神のもの」だからです。
主の教えによると、祈りには二つの部分があります。人間の部分と神の部分です。人間の部分は求めることであり、神の部分は与えることです。人間の側からそれを見ると、求める部分と与えられる部分があり、二つが全体を構成しています。それはあたかも、主が、答えを得ないで安心してはいけないと教えておられるようです。なぜなら、それは神のみこころであり、御父の家族の原則であるからです。子どものように求めてよいのです。答えが与えられないとき、あきらめといういすに座り込んで、答えられないことが神のみこころです、などと考えてはいけません。
キリストとともに~祈りの学校~ アンドリュー・マーレー著 いのちのことば社
「沈黙」が普通の状態であるという偽りを打ち砕きます。それは真理ではありません。
「答えがないことが答えだ」などと自分をごまかすのは終わりにします。
主は、ご自身の子たちと「語り合う」ことを喜ばれます。
私の祈りは聞かれていて、主は「語られ」ます。主は答えてくださいます。
覚えてください。
「だれでも」求めるならば与えられ、探すなら見つけ、たたくなら開かれるのです。
主よ、あなたは「ことば」の神です
主よ、あなたは語られます
私は、主の答えを期待します

