ヨハネ11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
マルタは信じていたのです
ラザロが息を引き取ったとき、マルタは泣いたでしょう。悲しくて辛くて「どうして、こんなことになったのか」と叫んだことでしょう。
しかし、マルタは立ち上がりました。そうせねばならなかったからです。姉妹マリアは、ずっと泣いたままです。マルタは、自分がしっかりせねばと思ったでしょう。彼女は気力を振り絞ってラザロを墓に葬りました。
そして、四日が過ぎました。もう「すべてが終わった」のです。
そのようなとき、イエス様が言われます。
マルタの答えは「さも当然」ではないでしょうか。
どうして、せっかく「葬った」のに、その墓を開かなければならないのでしょう。もう四日も過ぎたのです。今さら、墓の中を見て何になるというのでしょう。
もちろん、主は、すべての「涙」を知っておられます。マルタの悲しみを知っておられます。彼女が、どのような思いで兄弟ラザロを葬ったのかをご存知です。
あなたには「葬られた望み」があるでしょうか。
誰も知らない涙のあとをイエス様はご存知です。あなたが「痛み」「悲しみ」とともに葬った「夢」をイエス様は知っておられます。それは、主が与えてくださった「夢」です。主とともに育んできたものです。
「信じて歩んできたけれど、何も栄光を見なかった」
もしかすると、あなたはそのように感じているかもしれません。私も、そのように感じることがあるのです。
「信じるなら」とイエス様は言われます。けれど、マルタは、イエス様を信じていたはずです。
「きっと、イエス様が来てラザロを癒してくださる」と心から信じていたのです。
しかし「栄光」は現れませんでした。マルタは、その悲しみ、痛み、絶望をラザロと一緒に墓に葬ったのです。
それを今さら、どうして「信じるなら栄光を見る」などと言われるのでしょう。
それは「望み得ない時に望みを抱いて信じる」ことを教えるためです。
アブラハムが抱いた「望み得ない時の望み」とは「神ご自身」であることを覚えてください。
主は、あなたに「神ご自身を望みとして抱く」ことを教えたいのです。
世の中のすべてが「無理だ」と言っても…
私の人生のすべてが「ダメだったじゃないか」とつぶやいても…
それでも、イエス様が「石を取りのけなさい」と言われるならば「取りのける」のです。
私は、何度でも「主よ、あなたが言われるのでしたら」と言って石を取りのける者でありたいと思うのです。
主よ、あなたを信じます
私の望みは「主ご自身」です
信仰の高嶺に導いてください

