No.63 あわれみを求める者に目を留められます

階段と男の子

ルカ18:10
二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。

イエス様は自分を正しいと確信している人たちに話されました

ルカ18:11~12
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから十分の一を献げております。」

パリサイ人は、周りの人と自分を比べました。そして、「自分は他の人たちのようなではないことを感謝します」と言いました。確かに立派な人です。良い行いをする正しい人です。

ルカ18:13
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神様、罪人の私をあわれんでください。」

取税人は、ただ下を向いて、自分の胸を叩き、主の「あわれみ」を求めました。ただそれだけです。

ルカ18:4
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。

イエス様は、この取税人が「義と認められて」帰ったと、はっきり言われました。

パリサイ人の祈りではなく、取税人の祈りが主に受け入れられたのです。

御父は「あわれみ」を求めるものに目を留められます。

イザヤ64:8
私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。

私たちの義は「不潔な衣のよう」だとイザヤは言います。私たちの良い行いは、主の御前に何の役にも立ちません。それは着ているのがかえって恥ずかしいような汚れた着物です。

救いは「行い」によっては決して得られません。救われてからも同じです。主は私たちの「行い」ではなく私たちの「心」を望まれます。

「あわれんでください」という「心」に目を留められます。自分の「正しさ」により頼まず、ただ「あわれみ」により頼む者の祈りに答えられるのです。

哀歌3:22~23
私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
(新改訳第三版)

尽きることのない主のあわれみに依り頼みましょう。それは「朝ごと」に新しいのです。

今日の分の「あわれみ」を求めましょう。私は、主の「あわれみ」のうちに生かされています。

主よ。あわれんでください。
あなたのあわれみを注いでください。