黙示録11:16
すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。
前回の復習をかねて…
二人の証人が復活し、天に昇った後、エルサレムに大きな地震が起こります。
「七千人」とは、直訳すると「七千人の人々の名」です。
バーノン・マギー神学博士は、この人々はみな「著名人」であったと言います。これらの人々が、地震に巻き込まれたことは、翌日の新聞の見出しを飾るだろうと言っています。(マギー師の時代にはネットニュースはなかったのです)
彼らの全員が「著名人」であるのかどうかは分かりません。そうなのかもしれません。そうでないかもしれません。しかし、確かなことは、その「一人ひとり」は、その人に身近な誰かにとっては「著名人」以上であるということです。
「いのち」と「名前」が結びつけられていることを改めて思わされます。「七千人」の一人ひとりに「名前」があります。世界的に有名な人でなくても、その家族や友人には大切な「名前」があったのです。
患難時代には、数えきれないほどの人々が失われます。
しかし、覚えてください。イエス様のために「いのちを失う人」の名前は、永遠に失われません。「いのちの書」に名前が記されている人々は、たとえ「この地でいのちを失っても」永遠のいのちを得るのです。
この差は、非常に大きいものです。そして、深刻な差です。
この「七千人の人々の名」が失われたのかどうか、私には分かりません。
この地震は「携挙」であると解釈する学者さんもいますから、もしかすると全員「いのちの書」に記されていたのかもしれません。そして、もちろん、そうでないかもしれません。
私たちは「先のこと」を学んでいます。黙示録を学ぶ上で、最も大事なことは「学んだこと」を「今」に結びつけることです。「先のこと」は「関係ないこと」とするならば、この学びには何の価値もありません。
私たちは「自分の名」について確信を持っているでしょうか。
「私の名前は、いのちの書に記されている」と日々、感謝の中を歩んでいるでしょうか。
何よりも「天に名前が書き記されていること」を喜びましょう。
世の中の苦難は、確かに厳しく辛いかもしれません。それでも、あなたの名前は「天に書き記されて」います。御父も御使いたちも、あなたの名をが天に書き記されていることを喜んでいます。あなたも、一緒に喜びなさい。
そして、また、同時に覚えておかなければならないことがあります。
私たちの周囲には「天に名が記されていない人々」が、まだ大勢いるということです。
イエス様は「99匹」の羊を置いてでも、迷子の「1匹」を捜しに行かれる方です。主は「わたしには、まだ、囲いの外に他の羊がいる」と言われます。
患難期は、激しい御怒りの日、さばきの日です。主は、激しく怒られます。しかし、同時に多くの人の苦しみを見て、心を痛められるだろうとも思います。
私たちの神は、ヨナの時代にニネベの人々を惜しまれた優しい方です。今も、人々が滅びることを願ってはおられません。むしろ、悔い改めて生きることを望まれます。
私たちは祈りましょう。福音を宣べ伝えましょう。収穫の主に働き手を求めましょう。多くの人と「天に名が記されていること」を喜び合えるように、切に切に願い求めましょう。
私たちの祈りや種まきは、空しく地に落ちはしないと私は信じます。聖徒の祈りは積み上げられ、それが患難時代の聖徒の祝福になると私は信じているのです。
二十四人の長老たちの礼拝(4章と5章の補足)
さて、エルサレムに起こる大地震の後、天において使徒ヨハネはラッパの音を聞きます。
「この世の王国」は「キリストのもの」となりました。「もろもろの王国」ではなく「一つの王国」です。
原語でも、この世の「王国」は単数形の語が使用されています。
この世にはもろもろの言語、民族、国民がいます。「もろもろの王国」に見えますが、主は「一つの王国」とみなしておられるようです。
つまり、この世界は「この世の君」と呼ばれるサタンの国であったということです。
実際に、霊的な世界においては「サタンの支配」か「神の支配」しかないのです。多くの人は、自分は「中立」であると思っています。「神は信じていないが、サタンに支配されてもいない。自分は自分だ」と考えています。
しかし、中立などないのです。すべての人が「どちらか」に属しています。光の中にいないならば、闇の中にいるのです。神に立ち返っていないのなら、サタンの支配下にいるのです。(もちろん、それは「取り憑かれている」という意味ではありません)
「闇から光へ移される」「サタンの支配から神に立ち返る」ことが救いの本質です。救いとは「立ち位置」の問題なのです。世の人々に「中立」が存在しないように、聖徒にも「中立」などあり得ません。
第七のラッパが鳴り響いたとき、もろもろの声が叫びます。(この「大きな声」は複数形です)
「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される」
地上においては、まだ「闇」が支配しているように見えます。そして、その「闇」は、ますます濃くなるようにも思えます。しかし、天では「すでに成った」と宣言されるのです。
「二十四人の長老」たちは、それを聞いてひれ伏します。
黙示録は「啓示の書」ですが「礼拝の書」でもあると私は思います。
「二十四人の長老」たちは、今までにも登場しています。彼らは、神の御前に「自分の座」があるようです。しかし、たびたび、そこから降りて、ひれ伏し、礼拝をささげます。
「ひれ伏す」という行為は「礼拝」と必ず結びつけられています。「ひれ伏す」ことがなければ「礼拝」ではないと言えます。
黙示録には、天における礼拝が描かれています。それは、私たちが地上において「天の栄光」を垣間見ることができるようにと、主が恵みを与えてくださったのだと信じます。
天における礼拝は、ある意味において私たちの模範です。二十四人の長老は、神の御座の前で礼拝をささげているのです。それは、想像できないほど栄光に満ちた礼拝です。恐ろしくもあり、素晴らしくもあり、言葉では言い表せないような光景ですね。
私たちは、彼らの礼拝から学ぶことができるのです。
4章と5章を学んだときには、長老たちの礼拝について詳しくは話しませんでした。ここで少し「礼拝」について簡単に学びたいと思います。
使徒ヨハネが、初めて「二十四人の長老」を見たとき、彼らは白い衣をまとい、金の冠をかぶっていました。そして、その冠を投げ出して言ったのです。
この時、長老たちは「創造主なる方」を礼拝していました。
私たちも「創造主」を称えましょう。すべてを「創られた方」をあがめましょう。創造主を礼拝することは「そのみこころ」がすべてであると認めることです。
主が「万物」を創造され、私をも造ってくださいました。そして、それは「私の人生」のすべてが御手の中に存在するということです。そのすべてを主が創造されたということです。
「創造主」である方を礼拝するとき、私たちは「自分の人生」は、すべて「みこころのゆえに存在し、創造されたのだ」と認めざるを得ません。それは、もはや「自分の人生」ではなく「主のご計画」なのです。
あなたは「主のみこころ」のゆえに存在します。主は、あなたを「望んで」創造されました。
「自分のもの」「当然の権利」と思っているすべてを御前に投げ出しましょう。何が「自分のもの」なのかにこだわるよりも、あなたが「誰のもの」であるのかにこだわりなさい。そのほうが重要だからです。
私たちは、創造主である方の御前にひれ伏し、礼拝をささげましょう。
次に、長老たちの礼拝が記されているのは5章です。このとき彼らは「新しい歌」を歌いました。
「巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方」とは、屠られた子羊であるイエス様だけです。
彼らは「贖い主」を礼拝しました。イエス様の血潮の贖いについて賛美したのです。私たちは「贖い主」であるイエス様を褒めたたえます。「贖い主」の前にひれ伏します。
イエス様を「贖い主」として礼拝するということは、イエス様が「すべてのことを完了してくださった」と認めることです。巻物を受け取られた方が「天においても地においても、一切の権威を持っておられる」と認めることです。
私たちは「イエス様の血」によって、贖われました。私たちは「イエス様の血」によって「王国」であり「祭司」です。イエス様の血によって、私たちは「地を治める者」とされているのです。
「贖い主」を礼拝するとき、私たちは、今一度「自分が何者であるのか」を確認します。あなたは、キリストの血によって「王国であり祭司」です。そして「地を治める者」なのです。イエス様の権威とともに歩む者です。
「贖い主」を思いましょう。御前にひれ伏し、その「贖い」が意味することを深く知りましょう。天においても地においても「贖い主」こそ永遠に称えられるべき方です。
「贖い」については、黙想すればするほど良いと私は思います。「贖い」について深く考えることは信仰を強くします。
「贖い主」への賛美は「新しい歌」です。「贖い」を受けた私たちは心の底から「贖いの歌」を歌える者です。私たちは「贖いの歌」を歌いましょう。繰り返し繰り返し「贖いの歌」を賛美しましょう。それは、私たちが天に行ったあとも歌われる賛美です。
屠られた子羊は、今も、天において褒めたたえられています。私たちも礼拝しましょう。天に声を合わせてほめたたえましょう。
第七のラッパのあとの長老たちの礼拝
さて、第七のラッパが響き渡った後の長老たちの礼拝を見てみましょう。
二十四人の長老たちは「感謝」をささげています。厳密に言うと「感謝」と「礼拝」は違うものです。
「感謝」とは、主が「してくださったこと」に対してささげるものです。
このとき長老たちは、主が「成し遂げられたこと」に対して感謝をささげているのです。
主は「今おられ」る方です。そして「昔おられた全能者」です。
ここで「後に来られる方」という称号が省かれていることに気がつきますね。
主は「今おられ、昔おられ、後に来られる方」でした。この時点までは、主はそのような方だったのです。
しかし、第七のラッパが鳴り響いたとき、主はもはや「後に来られる方」ではありませんでした。それは、天において「成し遂げられたこと」となったからです。
主は「王」となられたのです。
「王となられた」は「統治を始められた」「支配を始められた」と訳すこともできます。むしろ、そちらの方が正確な訳であるという学者さんもいます。
今まで、主は、あえてサタンの自由にさせておられましたが、今から完全に支配権を取り戻されるのです。
二十四人の長老たちは「創造主」「贖い主」である方に礼拝をささげてきましたが、ここでは「統治者なる方」を礼拝しているのです。これは非常に重要なことです。
私たちは「全能なる神」を礼拝します。創造の偉大な御力を賛美します。贖い主を心から褒めたたえます。
しかし「統治者である主」を礼拝しているでしょうか。
いつも言いますが、私たちは「今だに」と「すでに」の間に生かされています。
確かに、イエス様はまだ「後に来られる方」です。しかし、この地において「すでに」御国の支配は拡大しているのです。
私たちは、今、生かされているこの地に「統治者」である方をお迎えしましょう。この場所は「すでに」主の支配の下にあると宣言するのです。
偉大な力を働かせて「王となられた方」「統治を始められた方」に感謝をささげましょう。そして「統治者」である主の御前にひれ伏し礼拝をささげましょう。
天において「創造主」「贖い主」「統治者である主」があがめられているのなら、地においてもそうあるべきです。
黙示録には「苦難」だけが記されているのではありません。黙示録には「天のこと」が多く記されているのです。私たちは、黙示録によって、ほんの少しだけ「天の光景」を見ることができます。それは、まるで雲の隙間から光が漏れだすようです。
天では絶え間なく礼拝がささげられています。そこには、主のご臨在があふれているのです。主の臨在を感じることができないことがないのです。常に「臨在」の中にいることができるのです。
それは、私の憧れです。この地において「御国の心地す」と歌いながら歩いて行きたいと切に望みます。
愛する兄弟姉妹。
天の故郷に憧れて生きましょう。御座に座す方を恐れつつ、慕い求めて生きましょう。
天を見上げて歩みましょう。「創造主」をあがめ「贖い主」を愛して、すべてを「統治」される方の御前にひれ伏しましょう。
私たちは、何よりもまず「礼拝者」であることを忘れずに生きましょう。
シャロームを祈ります。

