No.60 不信仰とは主を侮ることです

空と木

【へブル3:19】
このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。

それは不信仰のためでした

モーセに率いられてエジプトを出た人々は、約束の地に入ることができませんでした。それは「不信仰」のためであったと聖書は言います。

彼らは言いました。

「強い人たちがいるから無理だ」
「自分たちはバッタみたいなものだから無理だ」

民数記14:11
主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか、わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。」

民数記14:23
わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。

いつまで侮るのか。
いつまで信じないのか。

主を侮り、信じなかった者は約束の地に入ることができなかったのです。

「不信仰」とは「主を侮る」ことです。

主は、約束の地を与えると言わました。しかし、偵察に行った人々は「それは無理」だと言いました。イスラエルの民は、「必ず勝利できる」と叫んだヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしました。

民は「主のことば」ではなく「偵察隊のことば」を信じました。「神のことば」より「人のことば」を選んだのです。

それは、「見える」ものだったからです。彼らは「不信仰」だったので「見えないものを確信する」ことができなかったのです。

聖書は神の約束に満ちています。主は私たちに約束を与えておられます。

「聖書には良いことが書いてあるけれど、自分の人生には起こらない」そんな偽りを信じてはなりません。

「どう見ても無理だ」とささやく声に聞き従ってはなりません。

民数記13:30
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」

私たちは必ず打ち勝つことができます。

たとえ私たちがバッタに見えても、本当に虫けらのようであったとしても、私たちとともにおられる方は強いのです。

信仰とは「見えないものを確信させるもの」です。

つまり「見えるものに希望を置かないこと」です。

見えないけれど、確かに生きて働かれる方に確信を置くことです。

「不信仰の心」とは「神を侮る心」です。

「それは無理だ」とは「神にはできない」と言っていることなのです。

それは「神を侮る」ことです。

神様は、決して侮られるような方ではありません。

私は信じます。主には不可能なことは一つもありません。

約束の地に入れられたヨシュアとカレブのように宣言しましょう。

民数記14:9b
主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。

主がともにおられるのです。

「必ず打ち勝つことができます」

ヘブル10:39
しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つものです。

私は主を信じます。
見えるものではなく見えないものによって歩みます。

必ず打ち勝つことができます。