【創世記6章】神の心にかなう人

夕暮れの虹

【創世記6:8~9】
しかし、ノアは主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

何が「神の霊」を去らせたのか?

創世記6:1~2
さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。

人が全地に増え始めました。アダムの時代から人はどんどん増えていきました。

「神の子ら」は、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻としました。

創世記6:3
そこで主は、言われた。「わたしの霊は人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」

人の齢は120年になりました。寿命が極端に短くなりました。メトシェラの969歳に比べると全く短くなりました。エノクの777年に比べてもそうです。

短くなったのは「寿命」のことではないとする説もあります。

この時から大洪水の滅びまでの期間が120年なのだという説です。その120年の間、神の霊が、人の心が悪に傾かないように引き止める役割をされていたという解釈です。しかし、人々はそれを無視し続け、悪に傾き続けたので滅びに至ってしまったのだというものです。

ノアの時代の人々は、世の中が滅びるなんて、まったく思ってもいなかったでしょう。終わりの時は、ノアの時代のようなのです。洪水が来るまでの間、神の霊は、人々の良心に働きかけていたと私は思います。

どちらの説をとるにしても、主が「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない」と言われたのは確かなことです。

なぜ、「神の霊」は人から離れていかれるのでしょう?

その理由は何でしょうか。もう一度、創世記6章3節を見てみましょう。

創世記6:3
そこで主は、言われた。「わたしの霊は人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」

「そこで、主は言われた」と書いてあります。

この「そこで」は何を指しているのでしょう。この「そこで」が理由を指しているのは明らかです。

考えられることは創世記6章2節の出来事だけです。3節と合わせて見てみましょう。

創世記6:2~3
神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。そこで主は、言われた。「わたしの霊は人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」

「神の子らが人の娘を妻とした」そこで言われた「わたしの霊は永久にとどまらない」

日本語の意味としては、そのように読めます。そうとしか読めません。

しかし、「妻」とする行為が御心を損なうとは考えられません。アダムはエバを妻としています。主は彼らが「二人」でいることを祝福されました。

では、何が「神の霊」を人から去らせたのでしょう?

これはとても難解な箇所です。

できれば飛ばして先に進みたいと思ってしまいますが、「神の霊」が離れたという一大事ですので逃げずに考えてみたいと思います。

原因は「神の子」が「人の娘」を「妻とした」という言葉の意味にあると思いますが、正直、よくわかりません。

期待を持たせてはいけないので先に言います。私は、この「神の子」「人の娘」が誰かという答えを持ってはいません。考えて「発見しました」と言えればよかったけれど分からないままです。

今から三つの説を紹介しますので考えてみてください。

①神の子らは「セツ」の子孫で人の娘は「カイン」の子孫

1つ目の説は、この神の子らは「セツ」の子孫たちで、人の娘は「カイン」の子孫であるというものです。

おそらく、この説が最も一般的であると思います。

「セツ」の子孫とは、神の御名を呼ぶことを始めた人々の子孫ということです。彼らは「神とともに歩む人々」です。

「カイン」の子孫とは、さすらい人となったカインが建てた町の人々です。彼らは「神から離れた人々」です。

つまり、「神とともに歩んでいた人々」が「神から離れた人々」の娘を妻として、自分たちも「神から離れてしまった」という解釈です。

②「神の子」を「力ある者」の意味とする

2つ目の説は、「神の子」を代用語とする説です。

創世記10:9
彼は主の前に力ある狩人であった。それゆえ、「主の前に力ある狩人ニムロデのように」と言われるようになった。

「神の子ら」という言葉は、「ニムロデ」のような人々を表すという説です。つまり「力ある者」という意味で使われている言葉ではないかということです。(「神の子ら」は、「神の人」と訳すほうが正しいと言う学者さんもいます。)

当時「ネフィリム」と呼ばれる「名のある者」がいたと書かれています。

創世記6:4
神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。

ネフィリムとは「暴力で支配するもの」という意味です。(以下引用文中「ネピリム」は「ネフィリム」のこと)

「ネピリム」は、その原語「ナファル」からきている。「ナファル」ということばは、「~の上に落ちる」「攻撃」するという意味であるから、おそらく「ネピリム」とは「攻撃者」「略奪者」という意味だろうと思われる。

創世記 尾山令に著 羊群社

「力ある者」つまり「暴力などで支配する者」「攻撃者」「略奪者」が「神のようにふるまっていた」のでしょう。レメクのように「つるぎの歌」を誇らしげに歌う人々が世の中を支配するようになっていたのかもしれません。

「神のようにふるまう強い人々」すなわち「神の子ら」が自分の望むまま気に入った女性つまり「人の娘」を「妻」にしていたという解釈になります。

③「神の子ら」は御使いとする

3つ目の説は、「神の子ら」を「御使い」とする説です。

正直に言いますと、個人的に、この説に関しては全く問題にしていませんでした。

マタイ22:30
復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

イエス様が、御使いは「めとることも嫁ぐこともない」と言われたのです。なので、この説を紹介するのはためらいました。けれど、尊敬する聖書教師の説ですので紹介しておきたいと思います。

ユダ6節
またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。

自分の領分を守らずに「自分のいるべき所を捨てた御使いたち」は「悪霊」と呼ばれる存在です。

「ソドムとゴモラ」の人々は「いるべき所を捨てた御使い」と同じように「不自然な肉欲」を追い求めたと書かれています。つまり「いるべき所を捨てた御使い」は「ソドムとゴモラ」の人々と同じようなことをしたという解釈です。

そして、もう一箇所、根拠となる聖書箇所があります。

ヨブ1:6
ある日、神の子らがやって来て、主の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。

主の前に立ったと書いてありますから「神の子ら」とは「御使い」のことであると思えます。ここで「神の子ら」を御使いと解釈するならば、創世記6章2節の「神の子ら」を御使いとしても間違いではないという解釈です。

どの説をとるにしても背後に霊の戦いがあります

個人的には、3つの説のどれも完全に納得するには何か足りないような気がします。どれも何となく納得しきれないという感じを受けます。しかし、この他の説は今のところ思いつきません。

とにかく確実なことは、主は、「神の子ら」と呼ばれている者たちが「人の娘」を妻としたのをご覧になり、そして、おそらく「ネフィリム」が支配していく地をご覧になり、ご自身の霊を永久にとどめることはしないと決められたということです。

つまり、結果として「神」と「人」が離されたということです。そして、それは「サタン」の思うことが成ったというこです。

いずれの説をとるにしても、確かなことは「背後に悪しき者の介入があった」ということです。そして「悪しき者」は、自分の思いを成し遂げたということです。

「セツの子孫」を「カインの娘」が誘って偶像礼拝に引き込んだのかもしれません。その「背後」には「悪しき者の思惑」が存在します。

「力ある者」の背後に「人を支配する霊」がいたことは明白でしょう。サタンはいつも「人を奴隷」にするのですから。

「いるべき所を捨てた御使い」は、「神の子ら」を背後で操ったのかもしれません。「神の子ら」は「悪しき霊」に支配されていたのかもしれません。

いずれの説を取るにしても、このことが堕落につながっていくことは間違いありません。「神」と「人」は、またも「断絶」されたのです。そして、そこに悪いものの働きがあったことは、間違いないと思われます。

心がいつも悪に傾くのをご覧になった

創世記6:5~6
主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

主は、人の心が「いつも悪に傾く」のをご覧になりました。

「悔やむ」とは、原語では「ナーハム」と言います。「残念に思う」という意味です。「後悔」ではなく「残念に思う」という気持ちを表しています。主は、人を造ったことを残念に思われたのです。そして、心を痛められたのです。

誰もかれもがそうであったのです。みなが「悪に傾いた」のです。それがこの地の「通常(いつも)」であったからです。それがこの地の「形」となっていたからです。

みなが同じことを考えて行っていれば、それは「悪」という認識ではなくなります。みながやっていることを行うのに抵抗を感じる人はいません。

私はここに危機を感じます。私たちは自分の思考がどれほど「世の形」となっているのか、一度、立ち止まって点検してみる必要があると思います。

ローマ12:2
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を神に変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

「この世と調子を合わせてはいけません」とは、「この世と同じ形になってはいけません」とも訳せます。

私たちは「この世と同じ形」になってはいけません。主は「いつも悪に傾く」人々を見て「残念に思われ」「心を痛められた」のです。

誰も、「何が良いことで神に喜ばれ」ることなのかを考えなかったのです。誰もが「どうすれば自分が良い目をみるか」ということを追い求めていたからです。

「神の子ら」と「人の娘たち」が誰を表すのかはわかりません。しかし、その融合が主の心を痛めたことは確かです。「世の中と一つとなる」ことは「世の中の形と同じになる」ということです。

「世の中の形と同じになる」ことは、主の「心を痛める」ことです。

「この世と同じ形」となった私を見て、主は残念に思われます。そして、心を痛められるのです。

ノアは主の心にかなっていた

地上には悪が増大していました。誰もかれもが、みな「同じ形」でした。人の心は「いつも悪に傾き」ました。

創世記6:8
しかし、ノアは主の心にかなっていた。

「ノアは、主の心にかなっていた」と聖書は言います。主は、ノアに目を留められました。

「ノア」とは「慰め」という意味です。

創世記5:29
彼はその子をノアと名付けて言った。「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」

ノアの父レメクは、「この子は、この地で私たちを慰めてくれるだろう」と言いました。いつの時代も働くことは大変なのだなと思います。レメクにとって息子のノアは慰めをもたらす者でした。

そして、おそらく、主の御目にもノアは「慰め」をもたらしたのだろうと思います。

ノアは「この世と同じ形」ではなかったのです。彼の心は「悪に傾き」ませんでした。

創世記6:9
これはノアの歴史である。ノアは正しいひとで、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

この地に住む人々を乱暴に二つの種類に分けるとすれば、主にとって「慰めをもたらす人」か「残念に思われる人」かということになるでしょう。

主から離れて、「世の形と同じ」歩み方をする人を、主は残念に思われます。

しかし、このような小さな私でも主の慰めとなることができます。

ノアのように歩むことです。

「ノアは神とともに歩んだ」と聖書は言います。

それは「世」とつり合わないくびきを負わないことです。「世の友」とならないことです。「世と同じ形」にならないことです。

創世記6:8
しかし、ノアは主の心にかなっていた。

「主の心にかなっていた」とは、直訳すると「主の目に恵みを見出した」となります。

ノアは「正しい人」でした。悪が増大する世の中にあって「全き人」でした。ノアは「この世の形と同じ」ではありませんでした。

主は、ノアに目を留められました。ノアに「慰め」を見出されたであろうと信じます。そして、ノアは「主の目に恵みを見出した」のです。

目に見えない方と「見つめ合っている」ノアの姿が浮かびます。

主を見上げて歩みます

ノアの時代のように「地に悪が増大」している時代に私たちは生きています。

今の時代は、もっと巧妙で、それは一見して「悪」には見えません。暗闇の力は「選民」をも惑わそうと策を凝らしているのです。

イエス様の血潮を携え、主の臨在の中に行きましょう。

「この世と同じ形」ならないためには「主を見上げる」ことです。「何が良いことで神に喜ばれる」ことなのかを求めることです。主を見上げ続ければ必ず見分けることができるようになります。

「主の目の中」を見てください。そこには「恵み」があるのです。それを見出せば、私たちも「主の心にかなう」のです。

主が求めておられるのは、この地を力で支配する者ではありません。名のある者でもありません。

主が求めておられるのは「ともに歩く人」なのです。

主は、あなたに「主の目の中」を見て「恵み」を見出してほしいと願っておられます。主は、決して、あなたから目を逸らされません。

主は心からご自分を慕い求める人を探しておられます。

それは「ともに歩く」ためです。

私たちは「世と同じ形」になってはなりません。「世の友」として歩んではなりません。それは、主の心を痛めることです。

私たちは「神のかたち」に造られたのです。それは「神とともに歩く」ためです。

主を見上げましょう。主とともに歩きましょう。

今、主に申し上げましょう。「私は、あなたとともに歩みます」と。

それこそが「神の心にかなう人」なのです。

祝福を祈ります。