2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

No.515 イエス様の愛は人知をはるかに超えるのです

農場の道

エペソ3:19
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

主の愛は、私にも注がれています

パウロは、「人知をはるかに超えたキリストの愛」と言っています。

私たちの主イエスの愛は「人知を超える」のです。

「人知」とは、文字通り「人の知恵」という意味です。

「人」が思いつくかぎり「最も理想的な愛」をはるかに超えるのが「キリストの愛」なのです。

ローマ5:7
正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

イエス様は「正しくない人」「善良でない人」のために死んでくださいました。

イエス様は「弱い人」のために死なれました。「罪人」のために死なれました。「不敬虔な者」のために死なれました。

イエス様は、私たちが「神の敵」であったときに、私たちのために死んでくださったのです。

ローマ5:10
敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって神の怒りから救われるのは、なおいそう確かなことです。

私たちが「神の怒り」から救われるのは「人知をはるかに超えたキリストの愛」ゆえなのです。

パウロは、そのことを痛感していただろうと思います。

Ⅰテモテ1:15
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

パウロは自分のことを「罪人のかしら」であると言っています。

これが大げさな自己紹介でないことは明らかです。

パウロは、ステパノを殺すことに同意していました。主のしもべを石打にすることに加担していたのです。

パウロ、当時はサウロと呼ばれていましたが、彼の存在は聖徒にとっては「恐怖」そのものでした。誰でも、キリスト者であるならば容赦なく引きずり倒し牢に放り込んでいたのです。

主が、サウロをご自身の使徒として召されたことは「人知をはるかに超えた愛」でした。

イエス様の愛は「迫害者」にも注がれるのです。

そして、今、あなたにも注がれています。

エペソ3:18~19
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

私たちはイエス様の愛の「その広さ、長さ、高さ、深さ」を理解する力を持つことができます。

あなたは「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ること」ができるのです。

ここで「知る」と訳されている語は「体験的に知る」という意味です。私たちは「理解を超えた愛」を「体験する」ことによって知ります。

イエス様の愛は、説明されても理解できない愛です。それは、あなたが「体験」するべき愛なのです。

主は、あなたに「人知をはるかに超えたキリストの愛」を知って欲しいと望んでおられます。

人知をはるかに超えたキリストの愛を感謝します
主の愛を知ることができますように
神の豊かさに満ち溢れさせてください