2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

【黙示録11章3節~6節】二人の証人が預言をします

再臨を待つ

黙示録11:6
この二人は、預言している期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。

粗布をまとった二人の証人が現れます

患難時代に「二人の証人」が現れます。

黙示録11:3
わたしがそれを許すので、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。

この「二人の証人」は、主の許しのもとで活動します。

千二百六十日間、彼らは預言します。つまり「三年半」ですね。

この場面は、エルサレムで伝道している二人の証人について語られています。彼らは伝道師でもあり預言者でもあります。彼らの伝道の内容はイエス・キリストと呼ばれている者は、この宇宙の創造主である神であり、ユダヤ人のメシアであり、全人類の救い主です!」という福音を大声で伝えるものです。
イエス・キリストは再び来られる 栄子・スティーブンス著 オメガ出版

この時、おそらく「14万4千人」の伝道者たちも福音伝道を行っています。これは、地上で行われる最後の福音伝道であると思われます。

二人の証人は「1260日(三年半)」の間、一日も欠かすことなく「預言」し続けます。

彼らが「粗布」をまとっているのは「悔い改め」の預言者だということでしょうか。

文字通り「粗布」を着て預言活動をしているとしたら、かなり注目を集めることでしょう。

黙示録11:4
彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

彼らは「二本のオリーブの木」そして「二つの燭台」であると言われています。

ゼカリヤ書にも、同じように「二人の人」について言及されている箇所があります。

預言者ゼカリヤは「燭台の左右にある二本のオリーブの木」を見ました。そして、御使いに尋ねて言います。

ゼカリヤ4:12~14
そして再び尋ねた。「日本の金の管によって金の油を注ぎだす、このオリーブの二本の枝は何ですか。」
すると彼は私にこう言った。「あなたは、これらが何であるのかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」
彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ。」

ゼカリヤは、バビロン捕囚から戻って来た人々が、神殿を再建する時代の預言者です。

ゼカリヤが見た「二本のオリーブの木」である「二人の油注がれた者」とは、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアのことです。彼ら二人は、力を合わせて民を指揮し神殿を再建しました。

ゼルバベルの目の前には「山のような問題」がありました。「神殿を再建するなんて、本当にできるのだろうか」と誰もが不安に思っていたのです。

そのような時、預言者ゼカリヤは「二本の金の管によって金の油を注ぎだす二本のオリーブの木」を見たのです。

それは、主からのゼルバベルへの励ましでした。

ゼカリヤ4:6
彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」

ゼルバベルと大祭司ヨシュアは、不可能だと思われることに挑戦しなければなりませんでした。大勢の敵が存在する中、熱意を失くしてしまった民を率いて、神殿を再建しなければならないのです。

しかし、主は、言われます。

「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と。

主は、ゼルバベルと大祭司ヨシュアに「油注がれ」ました。彼らは、自分の力ではなく、ただ聖霊の御力によって事を成し遂げたのです。

患難時代に現れる「二人の証人」も同じように「全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者」です。

彼らは「預言」をします。彼らの背後には「万軍の主」がおられます。

ゼルバベルの前に「山のような問題」があったように、患難時代の二人の証人にも「山」があります。世の人々は、彼らを敵とみなします。

しかし、主はゼルバベルに言われたように彼らにも言われます。

「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」

この二人の証人がどのような立場の人なのかは分かりません。

エリヤのように「田舎」から出て来た預言者なのか…

モーセのように「宮殿」から逃亡した者なのか…

ゼルバベルのような「政治家」なのか…

大祭司ヨシュアのような「聖職者」なのか…

彼らの世の中における役職が何であったとしても、彼らの力は「主からのもの」です。

彼らは「主の御力」によって1260日間、預言するのです。

この「二人の証人」はまた、「二つの燭台」とも呼ばれています。

「燭台」は「教会」を表すので、二人の証人は「人間」ではなく「教会」の象徴であるという解釈もあります。

「携挙」がないとするならば、その解釈もあり得るのかなとは思います。しかし、私は、この時代には「携挙」されていると信じていますから、この二人は「人間」であると考えます。

「二つの燭台」とは、この二人が患難時代の「光」であると言う意味なのではないかと私は思います。

マタイ5:14~15
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして枡の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。

二人の証人は、世を照らす燭台です。

彼らは「世を照らす」のです。

しかし、世の人々にとって、彼らの放つ光は強すぎたようです。世の中の方が「暗くなり過ぎた」と言う方が正しいのかもしれません。

ヨハネ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

「闇はこれに打ち勝たなかった」とは、別訳では「闇はこれを悟らなかった」もしくは「理解しなかった」です。

「闇」は「光」を理解することができません。「闇」であるかぎり「光」を悟ることはできないのです。

イエス様が最初に世に来られた時、世は「この方」を受け入れませんでした。

それと同じように、二人の証人を受け入れる人も、極わずかなのではないかと思います。

二人の証人に与えられた力

主は、この二人の証人を「超自然的」に守られます。

黙示録11:5
もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。

さてさて、私の頭は、これを思い巡らすことを拒否してしまいそうです(笑)

想像力が乏しくて、私には「特撮映画」のような場面しか思い描けません(笑)

これは象徴的に捉えるべきで、彼らのことばが「火のように激しいもの」であったと解釈する意見もあります。

しかし、私は、たとえ想像できないようなことであっても、やはり「彼らの口から火が出て」害を加えようとする人々を殺すのだと思うのです。

どのようにしてかは分かりません。武器を使用するのだろうという意見もあります。

私は、個人的な意見としては、エリヤのように「火を呼び下す権威」が授けられているのだと思っています。

Ⅱ列王記1:10
エリヤはその五十人隊の超に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。

主は、エリヤに「天からの火」を下す権威を授けられました。

患難時代、人々は「聖書の物語」を現実に見ることになると私は信じます。

二人の証人は、エルサレムで活動します。彼らの預言の対象は、おもにイスラエル人だからです。

しかし「全世界」が彼らの預言を聞き、彼らの行うことを見るでしょう。彼らの言動を様々な媒体がリアルタイムで発信し続けるはずです。

黙示録11:6
この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。

この二人が「誰なのか」ということについては、様々な意見があります。

多くの人が、彼らを「エリヤとモーセ」であると言っています。

確かに「雨が降らないように天を閉じる権威」は、エリヤを思い起こさせます。

また「水を血に変える権威」は、モーセを思い起こさせるものです。

また、ある人々は「パウロ」と「ペテロ」だと言います。

「エリヤ」と「エノク」だと言う人もいます。「エリヤ」と「エリシャ」だと言う人もいます。

また「バプテスマのヨハネ」の再来だと言う意見もあります。

「ルター」と「カルヴァン」だと言う人までいます。

「二人の証人」は、確かに「エリヤ」と「モーセ」のような人なのでしょう。

イエス様が「パプテスマのヨハネこそ来たるべきエリヤだ」と言われたように、その時代を生きる「エリヤのような人」と「モーセのような人」がいるのだと私は思います。

私は、個人的には、彼らは「エリヤとモーセの使命」を帯びた人たちだと思っています。

まあ、しかし、大事なことは「彼らが誰か」ということではありません。彼らが「誰なのか」が、それほど重要なことではないと思います。もし、重要ならば、彼らについて、もっと詳しい情報が記されていたでしょう。

彼らは「二人の証人」です。大切なことは、彼らが「証人」であるということです。

主は、モーセに言われました。

出エジプト10:1~2
主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」

主がモーセを通して、様々な災害を起こされたのは、ご自身が「主」であることを知らせるためです。特に、イスラエルに「主である」ことを知らせるためです。

同じように、二人の証人に「超自然の権威」が与えられたのは、イスラエル及び全世界が「主こそ神」であることを知るためです。

しかし、人々はファラオが心を頑なにしたように「二人の証人」を退けます。世の人々は、二人の証人を憎むようになるのです。

エリヤが「天を閉ざした」とき、アハブ王はエリヤに言いました。

Ⅰ列王記18:17
アハブがエリヤを見るやいなや、アハブは彼に言った。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は。」

アハブにとって、エリヤは「わざわいをもたらす者」でした。

同じように、患難時代において、多くの人々が二人の証人のことを「わざわいをもたらす者」だと非難するでしょう。

もう一度、黙示録11節を読みましょう。

黙示録11:6
この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。

世界中の人々が、二人の証人に注目します。

人々は、信じられないような光景を目撃するのです。

人々は「人間」が「あらゆる災害」で地を打つ姿を見ることになります。

そして、この「天候不良」を引き起こしているのは「二人の人間」なのだということを受け入れないわけにはいかなくなります。「水を血に変えて」自分たちを苦しめているのは「二人の人間」なのです。

このように考えていくと、世の人々が「二人の証人」を受け入れるのは難しことだと思わざるを得ませんね。

人々は、彼らの預言よりも「あらゆる災害」に目を向けるでしょう。

そして、自分たちを苦しめる存在である「二人の証人」を憎むようになります。

患難時代の人々は、主が遣わされた「二人の証人」を排除することを選ぶのです。

私はいのちを選びます

私たちは、今、終わりの時代を生かされています。

預言者エリヤが人々に「二択」を迫ったように、私たちも、今、決断を迫られているように感じます。

Ⅰ列王記18:21
エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちはいつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」

私たちに迫られているのは「神の友」となるか、「世の友」となるかの選択です。

私たちは、いつまで「どっちつかず」によろめいているのでしょう。

患難時代の人々は、闇の中にいて「光を理解できない」状態なのでしょう。彼らは、燭台である「二人の証人」を理解できずに拒みます。

私たちは患難時代を生きることはないでしょう。

しかし「どっちつかず」によろめいているならば、いつの日か「光」を退けることになるのです。

パウロは終わりの時代について言っています。

Ⅱテモテ4:3~4
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

「世の友となる者は、神の敵となる」という教えは、耳に心地よいとは言えませんね。

しかし「真理」です。

粗布を着て、恐ろしい災害を起こす「二人の証人」は、耳に心地よいことばを語ることはないでしょう。しかし、彼らは「真理」を語ります。

私たちは「真理」を見分けなければなりません。

「どっちつかず」でいるならば、決して「真理」を見分けることはできないでしょう。

「見えるもの」に依り頼んで生きているならば、それらが崩れ去ったとき「神の愛」を疑うことになるでしょう。私たちは「見えるところに従って」歩んではならないのです。

「良いこと」も「悪いこと」も、すべてが常に「外側から来る」と考えているならば、いつか惑わされることになります。あなたの「喜び」が、いつも「何か」や「誰か」に依存しているならば、必ず、その「喜び」が奪われる日が来ます。しかし、あなたの「喜び」が内側から溢れるものであるならば、その喜びは何が起こっても失われることがありません。

私たちは「良い事」や「悪い事」に注目してはなりません。「良い事」も「悪い事」も主観に過ぎません。私たちが注目するべきは、「良い方」なのです。

神は愛です。聖霊は喜びです。主イエスは勝利なのです。

見えるものが「愛」ではないように思えても、神の愛を疑ってはなりません。神こそ「愛」であることを信じるのです。

あなたの「喜び」が御霊によるものである限り、誰にも何にも奪われることはありません。

たとえ目の前に見えるものが「敗北」を告げたとしても、イエス様が「すでに世に勝った」ことを信じなさい。私たちは、よみがえられたイエスから目を離してはならないのです。

終わりの時代は「揺り動かされる時代」だと私は思います。

天も地も「揺り動かされる」ことになるでしょう。それは「揺り動かされないものが残るため」です。

「二人の証人」は、受け入れやすい人たちではありません。粗布を着て、激しく預言し、火を呼び下す二人は「変わった人」であり「恐ろしい人」です。

しかし、彼らを打ち倒すために現れる「反キリスト」は「正義の人」で「頼もしい人」に見えるのです。

Ⅱコリント11:14
しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。

サタンのしもべは「義のしもべ」に変装します。偽使徒は現れます。人を欺く悪い働き人は、キリストの使徒に変装します。

サタンは「豊かさ」を偽装します。あなたの「思っているとおり」の祝福を用意することもできるのです。

サタンは「真面目さ」を利用することもします。あなたが「思っているとおり」の教理を作り出すことさえできます。

豊かな教会であったラオディキアは、自分には「足りないものはない」と言って、すべての源であるイエス様を閉め出しました。豊かであることは「判断基準」にはなりません。

偽使徒を追い出し、忍耐と労苦のうちにあった真面目なエペソ教会は「初めの愛」から落ちていました。時として、真理に立っているように見える教会でも「落ちて」いることがあるのです。

「いのちの木」を選びなさい。

サタンは「善悪を知る知識の木」を差し出してくるでしょう。

あなたが「自分の知恵」や「世の中の常識」によって、すべてを判断するように誘惑してきます。

世の中には「多くの良いように見えるもの」があります。

しかし「その道の終わりは死」です。そこに「いのち」はありません。

私たちは「いのち」を選びましょう。

「いのち」とは育むものです。そこには「関わり」があるのです。

終わりの時代を「生き抜く」ことのできる人は、個人的にイエス様との「関わり」を持っている人です。

そのような人は「いのちを保ち」ます。「いのちの主」と直接つながっているからです。

アダムとエバは「善悪を知る知識の木」以外なら、どのような木の実を選んでも良かったのです。

しかし、今は逆です。

私たちは「いのちの木」以外を選んではなりません。それは、世のものを選ばないということです。イエス様を選び続けるということです。この方こそ「いのちの木」です。

「どっちつかず」は終わりにしなければなりません。

主は「どっちつかず」に対して選択を迫っておられます。

おそらく、患難時代に現れる二人の証人もエルサレムで叫ぶだろうと思います。

「おまえたちはいつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」

私たちは「どちら」を選ぶでしょうか。あなたは「世の友」であり続けますか。それとも「神の友」となりますか。

申命記30:19
私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。

私は「いのち」を選びます。

あなたも、もちろんそうでしょう。

私たちは、恐れ退く者ではなく、信じていのちを保ちましょう。

終わりの日を、ただ主イエスだけを見つめて生き抜きましょう。

シャロームを祈ります。