黙示録11:1
それから、杖のような測り竿が私に与えられて、こう告げられた。「立って、神の神殿と祭壇と、そこで礼拝している人を測りなさい。
そこで礼拝している人を測りなさいと言われました
前回は、黙示録10章8節~11節までを学びました。
使徒ヨハネは、御使いから「小さな巻物」を受け取って食べました。
その「巻物」に記されていることは、ヨハネの内側に入りました。彼は、巻物に記されていることと同化したのです。
そして、再び「預言せよ」との指示を受けるのです。
ヨハネの預言は、イスラエルについてだけではありません。それは「多くの民族、国民、言語、王たちについて」の預言です。ヨハネは、今一度、預言者としての使命を確かなものとされました。
では、黙示録11章の学びに進みましょう。
「預言せよ」と告げられたヨハネに渡されたのは「杖のような測り竿」でした。
「測りざお」と訳された原語は「καλαμος(カラモス)」で、もともと「葦」を意味するのですが、パレスチナの川に生息する葦は、五メートル以上にもなり、真っすぐなので測り竿として用いられました。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
ヨハネは、測り竿を手渡され「神殿と祭壇と礼拝している人」を測るようにと告げられます。
預言者エゼキエルも、御使いとともに「神殿」を測って周ったことがありました。御使いは、同じように「測り竿」を手にしていました。この時の「測り竿」の長さは、約3メートルほどであったと記されています。もしかすると、ヨハネに渡された「測り竿」も同じぐらいの長さであったかもしれませんね。
エゼキエルが記している「神殿」は「千年王国」の時代のものです。エゼキエルは、千年王国の幻を見たのです。
エゼキエル40章から43章まで、その長さ、高さなどが詳細に記されています。
「測る」ことが何を意味するのか定かではありませんが、実際に建設されることと、それが神のものであることが強調されているのであろうと思います。
「千年王国」について、今回は詳しくは学びません。しかし、必ず、この地に実際に「エゼキエルが見た神殿」が建つと私は信じています。もちろん、それは再臨の後のことです。
それはさておき…
今、使徒ヨハネが「測るように」と指示された神殿は、千年王国に建てられる神殿のことではありません。それは「大患難時代」に存在する神殿です。
そこには「神殿」と「祭壇」と「礼拝する人々」が存在します。
驚くべきことですね。
私たちは、患難時代に多くの災いが起こるのを見ました。人々は苦難の中にいます。しかし、そのような時代に「神殿」と「祭壇」が建てられ、そしてそこで「礼拝する人々」がいるのです。
この礼拝する人々は、間違いなく「イスラエル人」です。
ヨハネが測るようにと言われた「神殿」については、その「長さ」や「高さ」について何も記されていません。
これは「主の指示による建築」ではなかったからなのかなと想像します。そこに「神殿」は建つけれど、主は、この神殿より「礼拝している人々」に注目しておられるということなのかもしれません。
これから神殿で起こることは悲劇です。荒らす忌むべき者が現れるからです。
しかし、主は、ご自身に忠実な者をご存知です。彼らは測られています。主のものです。
神殿の外の「異邦人」たちは、そこを踏みにじります。彼らは、測られません。
虐げる者たちは、主の御口の息吹によって滅びることになるのです。
それは最後の三年半のことです
さて、もう一度、黙示録11章1節を読みましょう。
ヨハネは「神の神殿と祭壇と、そこで礼拝している人を測りなさい」と命じられています。
つまり、患難期に「神殿が建てられ、そこで礼拝している人々がいる」ということです。
終わりの時代には「エルサレムに神殿が建っている」と私たちは言いますね。その根拠の一つがこの箇所です。
神の神殿で礼拝をささげるのは、異邦人ではなく「イスラエル人」です。
「異邦人」は、神殿の外の庭を「踏みにじる」だけで礼拝をささげはしません。
異邦人は「聖なる都」つまり「エルサレム」を四十二か月の間、踏みにじります。
四十二か月は「1260日」です。ユダヤの一年は「360日」ですから、これは約「三年半」のことです。
ダニエルは、患難時代について預言しています。
「あなたの民」とは、ダニエルの民ですから「イスラエル人」のことです。「聖なる都」は「エルサレム」のことです。「イスラエル人」と「エルサレム」については「七十週」が定められているのです。
「六十九週目」までは、すでに歴史となりました。
そして「六十九週目」で、預言の時計はストップしています。今は「異邦人の時」です。「教会の時代」という注解者もいます。どちらにしても、イスラエルに定められた時は「止まったまま」です。
「彼」とは「反キリスト」のことです。
イスラエルの最後の一週が動き出すのは「彼」が「多くの者と堅い契約を結ぶ」ときです。
「多くの者」とは、おもに「イスラエル人」のことです。彼らは「堅い契約」を結びます。
もちろん、反キリストはイスラエルだけではなく「世界中」と契約を結ぶでしょう。それは、世界に平和をもたらす契約なのだと思われます。どのような契約なのか詳細は分かりません。
しかし、イスラエルがこの時「神殿礼拝」を再開することは間違いないと思います。
なぜなら「半周の間、いけにえとささげものをやめさせる」と預言されているからです。
始めていないものを「やめさせる」ことはできません。
イスラエルは、患難時代に「いけにえ」をささげることを始めているはずです。
そして、彼らが「神殿以外」のところで「いけにえ」をささげることはないでしょうから、神殿も建設されているだろうと推測できるわけです。
「反キリスト」は、イスラエルと「堅い契約」を結びますが、その契約は一方的に破棄されます。
「偽りの父」に属する反キリストは、平気で人を欺くのです。彼は、裏切ることに罪悪感など覚えません。
彼は「半周の間、いけにえとささげものをやめさせる」のです。
1週は「七年」を表しますから、半周は「三年半」となりますね。(計算方法は、ダニエル9章の学びを参照してください)
それは、ちょうど「異邦人が外庭を踏みにじる期間」と同じです。
「三年半」と「四十二か月」と「1260日」は、みな同じ期間を表します。
ですから、黙示録の言う「四十二か月」は「大患難の最後の三年半」であると考えることができます。
最終的に、反キリストは「自分を神」として、人々に礼拝を強要します。
主の神殿は「荒らす忌まわしいもの」によって奪われます。
最後の「三年半」は、イスラエルにとって最も辛い日々となるでしょう。
二人の証人については次回に学びます。
今は彼らの活動期間が「1260日」であることに注目してください。このことについて、とても興味深い注解があるので少し長いですが引用します。
言うまでもありませんが、三年半は「四十二か月」と同じです。同じ期間を表わすのに三つの表現が用いられているのです。まず、三年半(一時と二時と半時の間)、次に、ここに記されている「四十二か月」、最後に「千二百六十日」です。この「四十二か月」という表現は、聖所の外庭が踏みにじられる期間を示すために用いられています。
けれども、神の民、神のしもべが神のために忠実に働いていり場合には、神は一年、二年、三年、とは数えません。一カ月、二カ月、三カ月とも数えません。一日、二日、三日と数えられます。「千二百六十日」と記されているとおりです。
このことによって、私たちは大きな励ましを受けるでしょう。この邪悪な時代であっても、神のために働くなら、神は、私たちが働いた期間を一日、二日、三日と数えて認めてくださるのです。
ヨハネの黙示録 J・B・カリー著 伝道出版
イエス様は「選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます」と言われました。
つまり、聖徒の患難は「日」によって数えられるのです。
これは、確かに私たちにとって慰めとなります。私は、大患難時代に地上にいないと信じています。
しかし、今、この地に生かされている間も、神様の日々の数え方は同じであると信じます。
あなたの「苦難」は「日」によって数えられています。それは「年単位」ではないとうことです。
また、あなたの働きも「日」によって数えられます。
主は、あなたが労苦した「年月」ではなく「日々」を見ておられます。そして、その「日々」のすべてを覚えておられます。
主は、誠実な方です。主は、あなたの愛を忘れることはありません。あなたの礼拝を忘れません。あなたの涙を忘れません。主を愛する、あなたの心を決して忘れることはないのです。
あなたの忍耐を覚えておられます。あなたの親切を、あなたの善意を、あなたが他の人に示した愛をすべて覚えておられます。
ですから、私たちは「一日一日」を大切に生きましょう。喜んで、丁寧に歩みましょう。
主のみことばは必ず成るのです
黙示録には「象徴」も多くありますが「文字通り」に受け留めるべき箇所も多くあります。私は、個人的にはなるべく「文字通り」に受け留めるべきであると考えています。(もちろん明らかに象徴だという箇所もあります)
この箇所についても同じで、私は、使徒ヨハネは「神殿と祭壇と礼拝する人々」を測ったと信じています。
そして、エゼキエルが見た神殿が実際に「千年王国時代」に建てられると信じているように、ヨハネの測った神殿も「患難時代」に必ず建っていると信じているのです。
しかし、この「神殿」を象徴であると解釈する注解者が大勢いることも事実です。
ヨハネの見た「神殿」は、「長さ」も「高さ」も記されていません。ゆえに、これは「実際の建物ではない」とする意見もあります。これは「教会」の象徴であって、大事なのは「礼拝する人々」であって建物ではないのだと言う解釈もあります。
確かに「教会」であるとすれば、大事なのは「礼拝者」であって会堂ではありません。そのことには激しく同意します。
けれど、やはりこれは「実際の神殿」であると私は信じます。
今の時代に「旧約の動物のいけにえ」のような儀式が復活するわけがないと言う意見もあります。しかし、私は、そこで「全焼のいけにえ」がささげられるだろうと信じています。
今、現在、エルサレムに「神の神殿」は建っていません。そこには、イスラム教の第三の聖地とされる「岩のドーム」が建っています。
しかし、主なる神に不可能なことはありませんから、時が来れば、必ず「神の神殿」は建つのです。イスラエルは、持てる限りの技術を駆使して、短期間で立派な神殿を建てるのだろうと思います。
もしかすると「岩のドーム」の横に「神の神殿」が建つようなことになるかもしれません。その可能性は高いのではないかと思ったりもします。
「そのままにしておきなさい」とは、直訳すると「外に投げよ」です。
主は、聖所の外庭を「投げ捨てておけ」と言われるのです。
エルサレム第三神殿が建てられることは、新約聖書で三回言及されている。初期の神殿位置は、今日、イスラム教の「岩のドーム」が建っているところではなかったことが、考古学的、歴史的調査によって裏付けられている。
一人で学べるキリストの啓示 K・フルダ・伊藤著 文芸社
最も有名な資料は、アッシャー・カフマンという学者のものだと思います。
アッシャー・カフマンという学者は神殿の山の調査で知られた人ですが、彼の調査によると、ソロモン王によって建てられた神殿は今日のドームの北側に位置していたと言うことです。ソロモン王の神殿の聖所は、岩のドームの約百メートル北にあったとカフマン博士は指摘しています。
黙示録の封印を解く チャック・スミス著 プリズム社
最近の研究では「南部説」というものもあるようです。ややこしいので引用はしませんが…
いずれにせよ、今まで「神殿があった」とされていた場所、つまり「岩のドーム」が建っている場所に「聖所」はなかったとする説が信ぴょう性を増しつつあるようです。
「聖所の外の庭」は「投げ捨てておけ」というのは、もしかすると「岩のドーム」がそのまま残されることを表しているのではないかと想像してしまいますね。
まあ、それは想像に過ぎません。本当のことは建ってみないと分かりません。
大事なことは、主のみことばは「必ず成る」ということです。
私たちは、あれやこれやと推測します。多くの人がいろいろな意見を発表しています。
私も、それらの意見を知るたびに「なるほどな」「そうかもしれないな」と思います。
しかし、繰り返しますが、それらはみな「推測」なのです。
確かなことは、いつか必ずエルサレムに神の神殿が建ち、そこで動物の犠牲がささげられることになるということだけです。
それは必ず起こります。
私は、ダニエルの預言を信じます。また黙示録に記されていることを信じます。
イエス様の初臨の預言はことごとく成就しました。ゆえに、再臨の預言もすべて成就すると信じます。
私たちは、信じて歩むだけです。
あなたが、今の時代に生かされているのには意味があると私は思います。
この激動の時代を見るようにと、主があなたを召されたのです。
今は、確かに終わりの時代です。
反キリストの出現は、そこまで迫っているでしょう。終わりのラッパが鳴り響く日は近いのです。
しかし、その前に「世界宣教」が果たされなければなりません。
私も、さんざんボンヤリと生きてきたように思いますが、本当に目覚める時がきたと痛感しています。
愛する兄弟姉妹。
私たちは立ち上がりましょう。終わりの日が近いという知らせは「怯える」ためのものではありません。
あなたには、愛と力と慎みの霊が注がれています。
終わりの日が近いという知らせは、あなたが「キリストのためだけに」生きる時が来たという宣言なのです。
今は、終わりの時代です。
今は、ただイエス様のためだけに生きる時代なのです。
私たちは、今、二択を迫られていると私は感じています。
あなたは「キリスト」のものですか?
それとも「自分」のものですか?
私は、もはや「自分」のために生かされたいとは思いません。
あなたも、おそらく同じでしょう。
私たちは、祈りましょう。心を整えましょう。身を慎みましょう。
主が、あなたを終わりの時代の勇士としてくださいますように。
シャロームを祈ります。

