黙示録10:7
第七の御使いが吹こうとしているラッパの音が響くその日に、神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げられたとおりに実現する。
この強い御使いとは誰か?
さて、私たちは「第六のラッパ」について学んでいます。つまり「第二のわざわい」についてです。
「その時」のために用意されていた四人の御使いが解き放たれると、恐ろしい事態が起こります。
ヨハネは二億の騎兵という数を聞き、異様な馬の幻を見ます。
この馬の災害によって、人間の三分の一が殺されます。
しかし、それでも生き残った人々は「悔い改めず、自分たちの手で造った物から離れる」ことはありません。
前回は、ここまでを学びました。今回は、10章から学んでいきます。
しかし、少し整理しておきましょう。
10章はガラリと雰囲気が変わります。けれど、まだ「第七のラッパ」は吹かれていないことを覚えておいてください。
つまり、これはまだ「第二のわざわい(第六のラッパ)の途中」なのです。ややこしいですね。
「第二のわざわい」が過ぎ去るのは、黙示録11章に入ってからです。黙示録11章14節にはこのように記されています。
ここまで、第二のわざわいが続いているということです。
さて、ヨハネが「見た」ことを私たちも見てみましょう。
使徒ヨハネは「もう一人の強い御使い」を見ました。
ヨハネは、その御使いが「下って」来るのを見たのです。つまり、ヨハネの置かれている場所が「天」ではなく「地」であることが分かります。視点が変わっているのです。
おそらく、この後、ヨハネは地上で行うべきことがあるので「下」に降ろされたのでしょう。この「やるべきこと」については、また次回に学びます。
ヨハネは「強い御使い」を見上げています。その御使いは「雲に包まれて天から下って」来たのです。
「その頭上には虹があり、その顔は太陽のよう、その足は火の柱のようで」と、この御使いは「輝かしい姿」をしています。
「もう一人の」と記されていますから、別に「もう一人」同じような御使いがいるということです。
確かに、ヨハネは別の「一人の強い御使い」を見ています。
「巻物を解くのにふさわしい者はだれか」と叫んでいた御使いは「一人の強い御使い」でした。
おそらく「もう一人の」とは、この「強い御使い」とは別の「もう一人」という意味でしょう。ややこしい書き方ですが、理解できますか?
この10章に登場する「もう一人の強い御使い」は、とても輝かしく、黙示録1章に啓示された「主イエス」のような姿をしているように見えます。
けれど、やはり「御使い」なのだろうなと私は思います。人間でさえ「主と顔と顔を合わせて」語れば「光を放つ」のです。モーセの顔は「光を放っていた」と記されています。
主イエスの顕現を委任された「強い御使い」が、主のご威光を輝かせていても不思議ではないように思いますが、どうでしょうか。(他にも、御使いなのかなと思う根拠はありますが割愛します。主題ではありませんから)
ただ、この「強い御使い」については、大きく意見が分かれていることも確かです。
多くの注解者が、この強い御使いは「主イエス」であるとしています。そうかもしれません。
いずれにせよ、使徒ヨハネが「強い御使い」と呼んでいるので、今回は「文字通り」に解釈して話を進めたいと思います。
開かれた小さな巻物を持っていました
さて、この強い御使いは「小さな巻物」を持っていました。
これを読むと「うわぁ、絶対にイエス様だ」と思ってしまいますよね。
「巻物」を持っているし、獅子のように吠えるし…、そう考えても不思議でないことは理解できます。いろいろと考えてみてください。それも楽しいでしょう。
それはさて置き…
この御使いは「開かれた小さな巻物」を手に持っています。
この「開かれた小さな巻物」とは何でしょうか。
小さな巻物とは「ビブラリディオン」で巻き物(ビブリオン)の縮小形のもので「部分的」なもののことです。そして、それは開かれているのです。隠されていない、ということです。そこである人はこれを「旧約聖書」と考えたり「福音」ではないかと主張したりする人もいますが、むしろ「明らかにされた真理」とみるべきです。主なる神は、ある真理を明確にしてくださるのです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
それは「小さな巻物」と呼ばれています。巻物に記されていることが次々と実現し、残りの部分が少なくなったからです。
黙示録 J・B・カリー著 伝道出版
御使いの手に握られている巻物は「小さい」のです。それは巻物のすべてではなく「部分的」なものなのです。
残りの部分が「少ない」から「小さい」のだとは、はっきり言い切れませんが、確かに巻物に記されていることは次々に成就しています。残りは「少ない」でしょう。
これは、個人的な意見ですが…
この後、使徒ヨハネは「巻物を食べよ」と命じられます。(詳しくは次回に学びます)
恐らくですが、この巻物には「今後、使徒ヨハネが預言すべきこと」が記されていたのだと思えます。それは、もちろん11章以降の出来事です。
ですから、奧山師が言われるように「明らかにされた真理」と考えるのが一番しっくりとくるなと思うのです。
子羊が開かれた「七つの封印の巻物」は解かれました。封印は開かれたのです。もはや「謎」ではありません。
その中でも、特に「使徒ヨハネ」に告げて欲しいと願われる「真理」があったのでしょう。「小さな巻物」はヨハネが食べるべき「真理」であったと言えます。
右足を海の上、左足を地の上に
もう一度、黙示録10章2節を読みましょう
この「強い御使い」は、主イエスの権威を行使しているようです。「足」は統治を表します。
「海」も「地」も、すべてはそれを造られた方のものなのです。
この後、獣と呼ばれる反キリストは「海」から上って来ます。
また、別の獣と呼ばれる偽預言者は「地」から上って来ると言われます。
「海」と「地」の意味など、詳しくは13章に入ってから学びましょう。
今は、「海」と「地」から獣たちが上って来ることだけを見てください。
そして、あの強い御使いの「足」がどこに置かれているのかを見てください。
獣がいくつ「王冠」を持っていようとも、別の獣が「竜のように」語ろうとも、彼らは「御使いの足もと」から這い出て来ただけなのです。
そこは、すでに「神の統治下」にあります。
使徒ヨハネは、天において「神のご威光」を目の当たりにしました。
そして、今、地上からも「神のご威光」を仰いでいるのです。
これから、ヨハネは「地上」において「獣」たちが暴れ回るのを見ることになります。聖徒が倒れていく姿も見ます。
天から見ていたときとは、また違う感情が生まれるでしょう。
主は、ヨハネに「誰が主権者なのか」を、もう一度、明らかにしておられるのです。すべては、御使いの足もとで行われていることなのです。
ヨハネは「御使いが下って来る」のを見る必要があったのです。そして、その足が力強く「海」と「地」に置かれているのを見なければならなかったのです。
確かに、サタンは侮るべき存在ではありません。私たちは、自分の力で立ち向かうことは決してできません。
しかし、全能なる神の御前では、サタンでさえ取るに足りない存在なのだということを覚えていてください。サタンは「被造物」に過ぎないのです。
天での戦いは「ミカエルと御使い」と「竜とその使い」の間で行われるのです。主が直接、手を下すまでもないのです。全能なる神は、至高の存在であることを私たちは忘れてはなりません。サタンと並べて考えるべき存在ではないのです。
実際のところ、サタンには勝ち目はありません。いくら背後にサタンがいるとしても、反キリストの敗北も定まっているのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、何を恐れているのでしょう。
想像できない光の中に住まわれ、すべてを見通しておられる方が、私たちを「愛している」と言われるのです。
「わたしはすでに世に勝った」と言われる方が「あなたを決して見捨てない」と言われるのです。
天の御座についておられる方は、獣どもを嘲笑われます。しかし、あなたのことは、その両手を広げ恵もうと待っておられます。
私たちは、地上に生かされている間、主が統治者であることを宣言しながら歩みましょう。
すべてを統べ治められる方が「味方」なのだと宣言しながら生きましょう。
イエス様の平安は、苦難の中でこそ際立つのです。
さあ、私たちは勇気を出しましょう。
すでに世に勝たれた方とともに行くのです。
七つの雷が語ったことは書き留めてはなりません
使徒ヨハネは、強い御使いが獅子のように吠えるのを聞きます。
御使いが叫んだとき、七つの雷が轟きます。七回、雷鳴が響いたということでしょう。
そして、その一つ一つの「雷鳴」は声を発したとヨハネは言います。
七つの雷は「何か」を語ったのです。ヨハネが書き留めようとしたのですから、それは「意味のあること」を告げていたのです。
しかし、それを「書き留める」ことはできませんでした。主が、それを書き留めるなと言われたからです。それは「封じておく」べきものなのです。
黙示録は「隠されたものを明らかにする書」ですが、しかし、すべてが「明らかにされる」というわけではないのですね。
私たちの神は、知り尽くしてしまえる方ではありません。私たちには、永遠に「知る」という楽しみが残されているようです。永遠の中に入れられても退屈することはなさそうです。
今ここで「封じておく」べきことを解き明かそうとしてはなりません。それを試みてはならないと私は思います。
ダニエルの預言が終わりのときまで「封じられた」ように、七つの雷のことばも、いつか解き明かされるかもしれません。もしかすると、永遠に秘密かもしれません。しかし、それは私たちの関与することではないのです。
隠されていることは「主のもの」です。それは、人のものではありません。
これは、預言を解釈するときの原則の一つです。
「封じられた」ことを探るのは時間の無駄だと私は思っています。明らかにされた「みことば」すら悟り切れていないのですから。私たちは、主が明らかにしてくださっていることに心を尽くしましょう。
「七つの雷のことば」は、使徒ヨハネだけが知っています。主は、それでよしとされたのです。
神の奥義は実現します
使徒ヨハネは、強い御使いが言うのを聞きました。
「海の上と地の上に立っている御使い」は、すべての創造主にかけて誓って言います。つまり、それは「絶対的権威のもとの宣誓」ということです。それは、取り消されることのない「真理」です。
御使いは言います。
「もはや時は残されておらず」
これは、直訳すると「もはや時はない」です。
「時」とは、ここでは「経過する時」の意味です。私たちが過ごす「時間」の「時」の意味です。
もう「残り時間はない」のです。
「第七の御使いが吹こうとしているラッパの音」それが合図となります。
それが「第三のわざわい」の始まりです。そして、それが「終わりの始まり」なのです。
「ラッパの音が響くその日」とは、原語では「ラッパの音が響くその日々」です。
「日々」ということは、ラッパの音が響いてから「幾日か」あるということです。それは「三年半」とか「四十二か月」とか言われる大患難の時期への言及かもしれません。
そして、注目すべきことは「その日に、神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げられたとおりに実現する」ということです。
御使いは「第七のラッパの音が響きその日に、わざわいが起こる」と宣言したのではありません。
「その日」は「神の奥義が実現する日」なのです。
神の「奥義」とは何でしょうか。
パウロが言うところによれば、神の奥義とは「キリスト」です。
そうすると、御使いは「キリストが、預言者たちに告げたとおりに実現する」と言ったのだと解釈できますね。
「告げたとおり」とは、直訳すると「福音が宣べられた」です。
新共同訳では「良い知らせとして告げられたとおり」と訳されています。
御使いは「キリストについての福音は、すべて実現する」と言っているのです。
今まで、預言者たちが告げて来たキリストについての多くの知らせが、すべて実現します。
イエス様に関して、まだ実現していないことは何でしょう?
一度目は、受難の救い主として、私たちの罪を負うために来られました。受難のしもべとしてのキリストに関する預言はことごとく実現しました。
まだ実現していないのは、二度目に来られる統治の主です。
イエス様の再臨に関する預言もことごとく実現します。主がすべての敵を足台にする日が近づいています。
「時はない」と聞くと、私たちは恐れを抱いてしまいます。これから「わざわい」が来ると身構えてしまうからです。
しかし、御使いの宣言は「その先」を告げているのだと私は信じています。
「もう時はない」と御使いが言うとき、それは、私たちの主イエスが栄光に輝くお姿で統治される日が迫っていることを意味します。
確かに、その前に「第三のわざわい」があるのは事実です。それは、恐ろしいわざわいです。
もちろん、私たちは、その時代にはそこにはいないことを信じています。
それでも、世の中を見回すとき、今の時代が「産みの苦しみの時代」であることは否めません。
イエス様は「これらのこと」が起こったなら「身を起こし、頭を上げなさい」と言われました。
私たちは、恐れながら下を向いて歩いてはなりません。様々なできごとに身震いしてしまうことはあるでしょう。
確かに「苦難」はあります。しかし、私たちは「苦難」に近づいているのではなく、主イエスの来臨に近づいているのです。
私たちの日々は、御国に近づく一日です。何気なく過ぎていく日々ではありません。あてのない旅でもありません。確実に、日々、御国に近づいているのです。
ですから、身を起こしましょう。頭を上げて、大胆に歩きましょう。
「主よ、今日も一日、あなたに会う日に近づきました。感謝します」と言いながら歩みましょう。
私は、本当に御国に行くのが楽しみなのです。御国で、あなたと会う日を心待ちにしています。
信じましょう。上を見上げながら、主イエスを思い、天の故郷に憧れて生きましょう。
イエス様に関するすべてのことは、必ず実現するのです。
シャロームを祈ります。

