Ⅰコリント11:24
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
これは、主の御からだです
イエス様は、ご自身で「パンを裂かれた」のです。
そして言われました。
「これは、わたしのからだです」
イエス様は、自らの意志で「いのち」を捨てられました。だれも、イエス様から「いのち」を奪うことはできません。
そして、それは御父の命令でもありました。御子が「いのち」を捨てることを御父が望まれたのです。
主イエスは、渡される夜、弟子たちにパンを裂いて与えられました。
自ら「裂いて」与えてくださいました。
そのとき弟子たちは、イエス様の言われている意味を理解することができませんでした。
しかし、その後、イエス様が十字架に架かられて、よみがえられた後、彼らは理解するのです。
十字架のイエス様は、確かに目を背けたくなるほどのお姿です。しかし、弟子たちは、そこに「神の愛」があることを悟りました。
御子を与えられるほど愛された神の愛を知ったのです。
「わたしを覚えてこれを行いなさい」
弟子たちは、パンを裂かれたイエス様を思い出したでしょう。一人一人のために、自らパンを裂かれた、その御手を思い出したでしょう。後に、釘打たれるその御手を思い出したでしょう。
彼らは、聖餐にあずかるたびに、そのお姿、その御手、そのお言葉を思い出したことでしょう。
「聖餐式」とは、単なる儀式ではありません。
主イエスを「覚えて」行うものです。その「いのち」にあずかっていることを確信するためのものです。
私のために、自ら「いのち」を捨ててくださった方が、私のうちに生きておられます。
私のために、自ら「裂かれて」くださった方は、決して私を見捨てられません。
聖餐にあずかるたびに、いえ、日々、私たちは「主イエス」を覚えましょう。
その「裂かれた御からだ」の意味を、一瞬たりとも忘れることがあってはなりません。
主は、私のうちに生きておられます
主の裂かれた御からだを覚えます
私は、主の打ち傷によって癒されました

