2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

No.495 わたしを覚えて、これを行いなさい その①

ガリラヤ湖で思う

Ⅰコリント11:24
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

これは、主の御からだです

イエス様は、ご自身で「パンを裂かれた」のです。

そして言われました。

「これは、わたしのからだです」

ヨハネ10:18
だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

イエス様は、自らの意志で「いのち」を捨てられました。だれも、イエス様から「いのち」を奪うことはできません。

そして、それは御父の命令でもありました。御子が「いのち」を捨てることを御父が望まれたのです。

主イエスは、渡される夜、弟子たちにパンを裂いて与えられました。

自ら「裂いて」与えてくださいました。

Ⅰコリント11:24
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

そのとき弟子たちは、イエス様の言われている意味を理解することができませんでした。

しかし、その後、イエス様が十字架に架かられて、よみがえられた後、彼らは理解するのです。

ローマ5:8
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

十字架のイエス様は、確かに目を背けたくなるほどのお姿です。しかし、弟子たちは、そこに「神の愛」があることを悟りました。

御子を与えられるほど愛された神の愛を知ったのです。

「わたしを覚えてこれを行いなさい」

弟子たちは、パンを裂かれたイエス様を思い出したでしょう。一人一人のために、自らパンを裂かれた、その御手を思い出したでしょう。後に、釘打たれるその御手を思い出したでしょう。

彼らは、聖餐にあずかるたびに、そのお姿、その御手、そのお言葉を思い出したことでしょう。

「聖餐式」とは、単なる儀式ではありません。

主イエスを「覚えて」行うものです。その「いのち」にあずかっていることを確信するためのものです。

私のために、自ら「いのち」を捨ててくださった方が、私のうちに生きておられます。

私のために、自ら「裂かれて」くださった方は、決して私を見捨てられません。

聖餐にあずかるたびに、いえ、日々、私たちは「主イエス」を覚えましょう。

その「裂かれた御からだ」の意味を、一瞬たりとも忘れることがあってはなりません。

主は、私のうちに生きておられます
主の裂かれた御からだを覚えます
私は、主の打ち傷によって癒されました