2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

No.491 イエス様が「望んで」くださったのです

冬の花

マルコ2:41
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。

主は、あわれみ深い方です

ある人がイエス様の御前に来ました。

マルコ2:40
さて、ツァラトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」

「お心一つで」とは、別訳では「お望みになるなら」です。

彼は「イエス様、あなたが望んでくださるなら、私はきよくなります」と言ったのです。

イエス様は、彼に言われました。

マルコ2:41
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。

ツァラトに冒された人に「触る」ことは、律法に反する行為です。パリサイ人や律法学者なら、決して触ることはしません。むしろ、避けて通るでしょう。

しかし、イエス様は「手を伸ばして彼にさわり」そして、言われたのです。

イエス様は「ことば」だけで、彼をきよめることがお出来になります。

「黙れ、静まれ」と嵐に命じられた方は、「癒されよ」と一言命じるだけでツァラトを癒すことがお出来になったでしょう。わざわざ「触る」必要はないのです。

しかし、イエス様は、わざわざ「彼に触って」言われたのです。

「わたしの心だ、きよくなれ」

「わたしの心だ」とは、同じく別訳では「わたしの望みだ」です。

彼が「あなたが望んでくださるなら」と言ったので、イエス様は「わたしは望むよ」と答えられたのです。

彼が「きよめられる」ことは、イエス様の望みなのです。ゆえに、彼は「きよめられた」のです。

彼に触れた御手は、あわれみの証なのです。ご自身が「汚れた者」と呼ばれることさえ厭わない、深いあわれみの現れなのです。そうする必要はないけれど、それでも御手を伸ばして触れて下さる、イエス様とは、そのような方なのです。

主は、あなたが「きよくある」ことを望んでくださいます。

主は、あなたが「健やかである」ことを望んでくださいます。

主が、あなたのためにいのちを捨ててくださったのは、あなたが「きよくある」ためです。

主が御からだに傷を受けられたのは、あなたが「癒される」ためです。

あなたが、必死に懇願していることは何でしょう?

なぜ、それが与えられないと思うのでしょう?

主は、あなたが「すべての点で幸いを得、また健康であること」を望んでおられます。

イエス様は言われます。

「わたしは、それを望んでいるよ」と。

主は、今、深いあわれみの御手を伸ばしてくださっています。

私たちは、主のあわれみ深い御手によって触れられています。

主があわれみ深い方であることを信じましょう。

私たちのために「罪人」と呼ばれることをすら厭わなかった方を信じましょう。

あなたのために「傷つけられた」方を信じなさい。

あなたの「幸い」をだれよりも望んでおられる方を見上げて歩むのです。

主よ、あなたのあわれみを信じます
あなたが、幸いを望んでくださることを信じます
私は、幸いです