黙示録8:6
また、七つのラッパを持った七人の御使いたちは、ラッパを吹く用意をした。
第一のラッパが吹かれます
子羊が「第七の封印」を解いたとき、天には半時間ほどの静けさがありました。
その後、神の御前に立つ七人の御使いにラッパが与えられました。しかし、彼らはすぐには与えられたラッパを吹きません。
主の御前に「香」が献げられる必要があったからです。
その後、香を献げた御使いは、空になった香炉に裁断の日を満たし、それを地上に投げつけます。
天が火を投げつけると、地には「雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こる」のです。
そのとき、七人の御使いが動きます。
さて、聖徒たちの祈りが御前に立ち上り、祭壇の火が地に投げつけられることが合図であったのか、七人の御使いたちはラッパを吹く用意をします。
第一のラッパが吹き鳴らされると、地には「雹と火」が投げ込まれました。
「血の混じった」の意味はよく分かりませんが、血の色のように見えたということでしょうか。エジプトのわざわいのときのように「火が雹のただ中をひらめき渡った」ということなのだろうと思います。
「雹」と「火」とは、何か対照的な感じを受けますが、「雹と火」が投げ込まれることによって地上には大規模な火災が起こります。
この「地の三分の一」が、実際にどれぐらいの規模なのかはわかりません。
「この地」を「全世界」と解釈することもできます。また「この地」を「地中海周辺」と解釈する注解者もいます。
「地上の三分の一」とはどういう意味でしょうか。全世界の三分の一、あるいは地中海の国々、特にヨーロッパの十か国同盟の三分の一という意味でしょうか。はっきりと断言することはできませんが、いずれにしても、エジプトに起こった災害と同じです。
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私は、個人的には「全世界」の意味なのかなぁと思いますが、いずれにしても深刻な災害が起こることは間違いありません。
そして、この出来事は「神のさばき」の現れであることも間違いありません。
黙示録の災害は、その昔、エジプトに対して下された災いと比較されます。確かに、とても似ていると思います。
この「雹と火の災い」は、出エジプト9章に記されている災いと同じように思えます。
出エジプトの時代に起こったことが、今度は、もっと激しさを増して起こります。また、もっと大きな規模で起こるのです。
主が、エジプトにわざわいを下されたのは「偶像の神」に対するさばきでした。
同じように「大患難のわざわい」は、神のさばきが地に下されるときです。
人が「神を神としてあがめず、感謝もしなかった」という結果を刈り取る日です。「神を知ること」に価値を認めない生き方を刈り取ることになるのです。
「神を知ること」に価値を認めないことは恐ろしいことです。
「神を認めず」に生きるとは「神を知っていながら感謝もしない」ということです。
「神を知ること」に価値を認めない人は「してはならないこと」を行うようになります。
鈍い心が「暗くなる」ので、「真理」と「偽り」の区別がつかなくなります。
ですから、終りのさばきの日、人々は悔い改めずに「御顔を避ける」ことを選ぶのです。
黙示録の「さばき」の特徴は「火」が使われることです。この地は「火」によって裁かれます。
「当時の世界」とは、もちろん「ノアの時代」のことです。当時の世界は、ノアたち以外は「水でおおわれて滅びて」しまいました。
今の天と地は「火で焼かれる」ことが定まっているのです。
主は、地を自ら「さばかれる」のです。「雹と火」は、天から直接、投げ込まれるのです。
ある人は「植物が最初に創造されたので、最初にわざわいに遭うのだ」と言います。そうかもしれないなと思います。
人は「地を支配せよ」と命じられました。しかし、人はその命令を「好き勝手しても良い」と解釈してしまったのです。私たちは「管理者」として、地の植物を管理すべきでした。しかし、人は「間違って」しまったのです。終わりのとき、主はその間違いをさばかれます。
「血の混じった雹と火」は、確実に「地の三分の一」を焼き尽くすでしょう。
その昔、エジプトにも「雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡った」のです。そして、それは「国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいもの」でした。
第一のラッパが鳴り響くとき、この地にも「雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡り」ます。
それは「国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいもの」となるでしょう。
第二のラッパが鳴りました
さて、続けて、第二の御使いがラッパを吹きます。ここは「間髪入れず」行われるようです。
第二のラッパが吹かれると「海」にわざわいが起こります。
「火の燃えている山のようなもの」が投げ込まれるのです。
「山のようなもの」が具体的に何を表わすのかは分かりません。「山のようなもの」ですから、「山そのもの」でないことは確かでしょう。
「山」のように大きなものが投げ込まれるのでしょうか。もしくは「大きな力」が投げ込まれるということかもしれません。
これは、エレミヤの預言です。世界帝国バビロンの滅びの預言がエレミヤを通して語られました。
主は、バビロン帝国のことを「破壊の山」と呼んでおられます。
そして、その「破壊の山」であるバビロンを「焼けた山」とすると言われています。
そう考えると、終わりの日に「大バビロン」と呼ばれる「ある都」と何か関係があるのかもしれないと思えます。けれど、これはあくまで「そう思う」という程度のことです。
まあ、これは、考えても結論がでることではないので、今は、先に進みましょう。このことについては、また個人的に続けて学んでいきたいと思っています。
一般的には、多くの人が「火の燃えている山のようなもの」を「隕石」だと解釈しています。そうかもしれません。使徒ヨハネの目からは、巨大な隕石が「火の燃えている山のようなもの」に見えたとしても不思議ではありません。
この描写も、何か巨大な隕石か小惑星が落ちて、赤い炎となっているように読めます。もしそうならば、その結果、第一に、数百キロメートルもの範囲で海の生物が死ぬであろうし、第二に、津波で船も沈み、海岸線の町は破壊されます。また、海も汚染され、ちょうど「赤潮」のような結果になり、海の生物も死んでしまうでしょう。
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その「火の燃えている山のようなもの」が海に投げ込まれると「海の三分の一が血になる」のです。
第二のラッパは「海」に対する災害をもたらします。
しかし「人」は、まだ全滅しません。そして「悔い改める」こともありません。エジプトのファラオが最後まで「頑な」であったように、地上に残された人々もまた「頑な」です。こうなっても、彼らは「偶像崇拝」をやめることはありません。彼らは最後まで「神の怒りの杯」を飲み干すことになります。
第三のラッパが吹き鳴らされます
第三の御使いがラッパを吹きます。
今度は、ヨハネは「たいまつのように燃えている大きな星」を見ました。「星のようなもの」ではありません。
これを「象徴的」にとらえて「星とは御使いを表わす」という解釈もあります。しかし、ここは「星」そのものと考えてよいかと思います。少なくとも、ヨハネには「星に見えたもの」が天から落ちて来るのです。
これこそ「隕石だ」という解釈が成り立ちそうですね。実際、多くの注解者が「隕石」もしくは「小惑星」だと言っています。しかし、何度も言いますが、私たちには「答え」は分からないのです。
さて、この「苦よもぎ」という言葉は、キリスト教界隈では有名な言葉になりましたね。
1986年に起こったロシアの「チェルノブイリ原発事故」は、史上最悪の原発事故と呼ばれます。
そしてこの「チェルノブイリ」という語は、ロシア語で「苦よもぎ」という意味だということが知れ渡ると、私たちはみな「動揺」したのです。
まあ、冷静に考えれば「苦よもぎ」という言葉が一致していますが、あれが「第三のラッパのわざわい」でないことは確かなのです。
しかし、終わりの日について何らかのことを教えているのは明らかでしょう。
第三の御使いのラッパによってもたらされる「苦よもぎ」とは、ロシア語で「チェルノブイリ」という言葉だそうです。チェルノブイリの事故の時、種々の資料を読んだのですが、ある資料に「チェルノブイリ」とは、黙示録八章十一節の「苦よもぎ」である、と書いてあったのを覚えています。まさに、チェルノブイリで起こった原発事故は黙示録的なことであったのです。やがて起こる本当の「チェルノブイリ」の前触れのような悲劇ではないでしょうか。
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私は「苦よもぎ」が、やがて起こる原発事故のことだと言っているのではありません。
ただ、黙示録に記されていることは「本当に起こり得ること」なのだと言っているのです。
それは、象徴的なできごとではなく、本当に起こる「悲劇的なできごと」なのです。
「苦よもぎ」のような星が「水源の上」に投げ込まれます。多くの人が「その水」を飲んで死に至るのです。
主は、わざわざ「その星の名」が「苦よもぎ」であると示してくださっています。ここには、何か私たちが知るべきことが隠されていると思えます。
「苦よもぎ」とは、実際に存在する植物の名前です。見た目は、ヨモギに似ているそうです。
「毒性はない、ただ苦いだけ」と書いてある本もありますが、多量摂取による健康被害は甚大なものだそうです。幻覚や錯乱を引き起こすので、多くの国で栽培が禁止されています。
主は、心に「苦よもぎ」を生じさせてはならないと言われます。
偶像を礼拝する心は「苦よもぎ」を生じさせているのです。「苦よもぎ」の根には毒素が多いのです。その根を心に生じさせ続けていると、必ず「精神に異常をきたす」のです。そして、死に至ります。
偶像礼拝が「死に至る罪」であることを、私たちは心に留めておかねばなりません。偶像礼拝は罪なのです。
主は、偶像礼拝者たちへのさばきについて語っておられます。
偶像礼拝に対するさばきは「苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませること」です。
実際のところ、イスラエルは「本当の苦よもぎを食べた」のではなく「バビロン捕囚によって苦い経験を味わった」のですが、終わりの日には、人々は「本当の苦よもぎを食べ、毒の水を飲む」ことになるのだろうと思います。
さて、このさばきは「一般の人」だけに及ぶのではありません。
主は「不敬虔」を広めた預言者たちにも「苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」と言われます。
民を「不敬虔」に導く指導者たちは、さばかれるのです。間違った教えを広める者を、主は忌み嫌われるのです。つまずきを与える者は、いつの時代であっても「わざわい」なのです。
もう一度、黙示録8章11節を読みましょう。
星の名が「苦よもぎ」と呼ばれているのは、これが「さばき」であると明らかにしたいからではないかと思います。これは、罪の結果なのだと知らせておられるのではないでしょうか。
「人」は、そんなつもりはなかったにせよ、苦い根を心に生じさせ続けたので、最後の時に「苦よもぎを食べ、毒の水を飲む」ことになるのです。
今、できることがあります
これは、個人的な意見ですが、私は「ラッパの時代」には、まだ希望があるのではないかと思っています。
つまり、人々が悔い改めて、唯一の真の神を受け入れることができるのではないかと思うのです。
出エジプトのとき、エジプトには、次々と災害が起こりました。ファラオの心は、どんどん頑なになっていきます。けれど、最後の災害が起こって、イスラエルがエジプトを出ていく時、その旅について来たエジプト人たちが大勢いたのです。
エジプトに下ったわざわいを見て、イスラエルの民が守られているのを見て、唯一の神を信じるようになった人々がいたということです。まあ、もちろん、そのついて来た人々は、後で問題の種となりますが、今は、置いておきましょう(笑)
愛する兄弟姉妹。
自分は、この時代に生きてはいないので関係がないと思っていてはなりません。もちろん、私は携挙を信じていますから、自分がこの時代に地上にいるとは思っていません。
しかし、後の時代のために、今、私たちにできることがあるのです。
私たちは「苦い根」を根絶しましょう。私たちから「苦い根が生じないようにする」のです。
苦い根が生え出ると「悩みが多く」なります。また、苦い根が生え出ると「多くの人が汚される」のです。
私が苦い根を生じさせると、私は「悩むこと」になります。しかし、それだけではなく、私の苦い根は、多くの人に伝染してしまうのです。
つまり「神を知ることに価値を認めない心」「神に感謝しない心」は、人を汚すのです。それらの心を持っていると「してはならないこと」を行うようになるのです。
これらのリストは、終わりの困難な時代の人々の特徴とほとんど同じです。それらは、ずっと代々、続いていくのです。
「苦い根」は、雑草のように繁殖します。根から根絶しないかぎり、あちこちに生え出てくるでしょう。
そして、この地を「苦い根」が覆いつくすとき、第三のラッパが鳴り響くのです。
私たちは「苦い根」を断ち切ることができます。
少なくとも、あなたは、あなたに続く人々が、あなたの苦い根によって汚されないようにすることができます。三代、四代に及ぶ咎ではなく、千代の恵みを求めることができるのです。
私は、私が生じさせた苦い根によって、誰かを汚したくはありません。苦い根を蔓延させたくはないのです。
確かに、世の終わりは来ます。主は、必ず、この地をさばかれます。罪は、地に蔓延するでしょう。
しかし、それでも、今、私たちにできることをしましょう。苦い根を断ち切り、少なくとも、私たちの周囲には「汚れ」が及ばないように、この「苦い根」をはびこらせることがないように一緒に立ち上がりましょう。
そうして、主が、この地をあわれんでくださり、終わりの日の前に、多くの人が救われるように祈りましょう。
私たちは「神を知ること」に価値を見出します。行くところどこにおいても、主を認め「感謝」をささげます。
私たちは、苦い水を甘くする方法を知っています。
苦い根が生じて、毒の水がわきでているところに「木」を投げ込みましょう。
その昔、モーセが「マラ」の苦い水に「一本の木」を投げ入れたように。
私たちは、心に「十字架」を掲げます。私たちの救い主が架けられた十字架を思います。どんな時でも、どんな場所でも、主の十字架の御業を語ります。主の血潮を宣言します。
そうすれば、平和の神が「苦い水」を「甘い水」に変えてくださいます。
本当の「毒水」を飲まされる時代が来る前に、私たちは、行くところすべてを「甘い水」に変えましょう。
まず、あなたの心を「甘い水」で満たしなさい。聖霊の豊かな愛のうちに憩うことです。
あなたのうちにおられる方は「優しい方」です。
私のうちに生きておられる方が「柔和で親切な方」なので、私はそのように生きることができます。
甘い水を湧きあがらせて歩みましょう。あなたのうちから、それがあふれ出て豊かに人々を満たしますように。
シャロームを祈ります。

