マルコ2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
それは信仰だったのです
イエス様が家におられると、多くの人が集まってきました。
そこに、四人の友達に担がれた中風を患った人が運ばれてきたのです。
その四人のうちの誰かが聞いたのでしょう。
「あの奇跡の人が、家におられるそうだ。イエス様は、今、みなに話をしておられるそうだ」
彼らは、大急ぎで「中風を患っている友」を担いで運び出しました。
彼らは、イエス様が語っておられる家にはたどり着きましたが、中に入ることはできませんでした。
さて、彼らはどうしたでしょう。
私は、この場面を想像すると、毎回、笑ってしまうのです。と同時に、少しの寂しさを感じてしまうのです。
彼らは、何という大胆なことをしたのでしょう。
とにかく、彼らはなんとかして「イエス様に近づこう」と考えました。周りのことを考えている余裕などなかったのでしょう。
彼らは、この家が自分たちのものではないこと、これは他人の家の屋根なのだということは忘れてしまっていたのです(笑)
友達を思う気持ちと、イエス様に近づきたいという願いが、彼らに大胆な行動をとらせました。
もちろん、私は、誰かに迷惑をかけてもよいと言いたいのではありません。
しかし、それすらも忘れてしまうぐらい「イエス様に近づきたい」と必死で願いたいとは思うのです。
この少し迷惑で無謀な行為を、イエス様は「信仰だ」と認めてくださいました。
主は彼らの「信仰を見て」くださったのです。それは「信仰」だったのです。
「信仰」とは、何が何でも「イエス様に近づきたい」と思わせるものです。
信仰とは、イエス様に近づきさえすれば「癒される」と心から思わせるものなのです。
私は、大人になって賢くなりすぎて「まず周囲を観察してから」動くようになった自分を寂しく思います。
動揺しないこと、落ち着いて行動することは大切なことです。
しかし、何もかもを忘れて「ただイエス様に近づきたい」と思う心を忘れてしまいたくはないのです。
イエス様は、はがされた屋根からのぞいた四人の顔を、笑いながら見ておられたのではないかと私は思います。
もちろん、その後で四人は屋根を元通りに戻したであろうとも思います(笑)
当時の屋根は、はがした後、私たちが想像するよりも容易にもとに戻せたようです。
愛する兄弟姉妹。
私たちの神様は、ふところの広いお方です。
あなたが、少し「がむしゃら」が過ぎたとしても、広い御腕で受け止めてくださいます。
私たちは、「主に近づく」ことを、もっと大胆に、もっと激しく求めましょう。
あなたのその思いを、イエス様は「信仰だ」と認めてくださいます。そして、必ず、笑顔で受け止めてくださるでしょう。
主よ、私はあなたに近づきたいのです
あなたは、私のすべてです
心を尽くして力の限り、あなたを愛します

