【マタイ11:29~30】
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたも私のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。
負いやすく軽いのです
「わたしのくびきは負いやすく」とイエス様は言われました。「負いやすく」とは、欄外の注釈では「心地よく」と書いてあります。
「くびき」とは牛などに農作業をさせたり、荷物を運ばせたりするときに使うものです。木の枠みたいなものを首に着けます。牛をコントロールして、思い通りの方向へ行かせるためです。
「イエス様のくびき」といっても、「くびき」ですから、なんだか窮屈な感じがします。
しかし、イエス様は言われるのです。「わたしのくびきは負いやすい」と、またあろうことかそれは「心地よい」と感じさせるものだというのです。
これは、負ってみなければわかりません。しかし、負ってみれば、その「心地よさ」がわかるでしょう。
他の人には「許されている」ことが私には「許されない」ということがあります。「罪」ではないから「何をしてもよい」ということではないのです。
聖霊様は「私」を導かれるのです。他の人と同じではなく、「私」専用のプログラムを持っておられます。聖霊様は、何が「私」に必要で、何が不必要であるかをご存じです。
私たちは、その判断を聖霊様に委ねなければなりません。
それは「くびき」のように感じるかもしれません。「そこまでしなくても」と周りの人には言われるかもしれません。
しかし、従ってみてください。必ず今まで感じたことのない「臨在」を味わうことができます。聖霊様の御力で「負う」ことができているのだなと感じます。聖霊様を身近に感じることができます。それは本当に「心地よい」ものです。
主の「くびき」を負いましょう。それは「負いやすく」「心地よい」ものです。
もし、あまりにも「重く」「痛く」「苦しい」のであれば立ち止まって考えてください。
もしかすると、あなたは「奴隷のくびき」を負わされているのかもしれません。そうでなければ、聖霊様が導かれる方向とは逆に歩いているのかもしれません。もしくは、自分だけで「負って」いるのかもしれません。
覚えてください。
イエス様のくびきは「負いやすく」「心地よい」のです。なぜなら、聖霊様が一緒に「負って」くださるからです。
私は聖霊様に判断を委ねます。
奴隷のくびきを砕きます。
イエス様から学びます。
イエス様のくびきだけを負います。
たましいに安らぎを得させてください。