黙示録7:9
その後、私は見た。すると見よ、すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
数えきれないほどの大勢の群衆とは誰か
引き続き黙示録の7章を学びます。今回は7章9節からですね。
使徒ヨハネは「だれも数えきれないほどの大勢の群衆」を見ました。
明らかに「御使いではない人々」を見たのです。彼らは、私たちと同じ「人」でした。
さて、この人たちは「誰か」ということが気になるでしょう?
「誰であるか」ということについては、いつもながら結論はでません(笑)
ある人は「大患難時代に殉教した人々だ」と言います。
「いや、14万4千人を含むイスラエル人だ」という人もいます。(これは、明らかに違うと思います)
「旧約時代の聖徒たちだ」という人もいます。
また、「携挙された人々だ」という意見もあります。
まあ、あれこれと考えるのは楽しいですよね。しかし、私たちは「書かれていること」を超えないようにしましょう。
まず、彼らは「数えきれないほど大勢の群衆」でした。
彼は「すべての国民、部族、民族、言語」からなる群衆です。決して「イスラエル人だけ」の集まりではないことが分かります。
そして、「御座の前と子羊の前に立って」います。
また彼らは「白い衣」を来て、手には「なつめ椰子の枝」を持っているのです。
この「数えきれないほどの大勢の群衆」が「キリストにある聖徒」であることは疑いようがありません。
「白い衣」を着ている「大勢の人々」は「勝利を得た人々」です。
「なつめ椰子の枝」も勝利を表しますから、彼らが「打ち勝った人々」であることは間違いありません。
そして「白い衣」を着ているならば、必ず「いのちの書」に名前が記されているのです。彼らは「神の民」です。「永遠に生きる者たち」です。
彼らは大声で「御座に通居ておられる方と子羊」を賛美します。
そして、その賛美の声に、これまた「大勢の御使い」が呼応するのです。
さて、これは想像力が追いつきません。これはどのような情景なのでしょうか。
使徒ヨハネは、上空から見ているような感じなのでしょうか。
大勢の群衆は、御座の前、子羊の前にいます。御使いは、その周囲を囲むように立っているのでしょうか。
想像はできないけれど、それゆえに心が躍りますね。私たちが、まだ見たことのない情景が、そこには広がっています。人と御使いがともに、永遠に生きておられる神を礼拝しているのです。
恐らく、使徒ヨハネは圧倒されていただろうと思います。
明らかに「長老の一人」と呼ばれる人は「彼らが誰で、どこから来たのか」を知っています。彼は、ヨハネに「答え」を求めているわけではなく「質問をうながしている」ようです。
ヨハネの質問を待っていた長老は、この人たちが「誰で、どこから来たのか」をすぐに教えてくれます。
長老によると、この人たちは「大きな患難を経て来た人たち」です。
つまり「地上にいた人々」です。
「大きな患難」とは、おそらく「大患難時代」のことを示しているのだろうと思います。しかし、もちろん別の解釈もありますから定かではありません。
しかし、彼らが何かしらの「患難」を経て来たのは確かです。
そして、彼らが「子羊の血」によって救われた人々であるということもまた、間違いありません。
多くの注解者は「これらの人々は大患難時代に、14万4千人に伝道され救われた人々だ」と解釈しています。
そして、これらの人々はみな「大患難時代に殉教者する人々だ」とも言われています。
つまり「彼らは教会ではない」と言うことです。もし「教会」であったなら、使徒ヨハネが「知らない」はずがないという理屈ですね。
彼らが「教会」であるかどうかは別として、彼らが「聖徒」であることは間違いありません。彼らは「キリストにある者」です。「子羊の血」で白くされたのですから。
苦しみの中で宣べ伝えられた信仰
もし彼らが「大患難時代」に救われた人々だとすれば、苦しみの最中で宣教がされていくということになります。そして、数えきれないほど大勢の人が救われると言うことです。それも、世界中のあらゆる国々、民族から救われるのです。
このように患難時代を通して世界宣教が達成されるのです。ですから患難の前に携挙される私たちは、宣教の働きを達成する前に携挙され、残りの仕事は患難時代に救われた人々によって達成されて行くことになります。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
「大患難時代」にも、救われる人々がいることを私は信じます。それも「数えきれないほど多くの人」が救われるだろうと信じます。
「獣」が「聖徒たちに戦いを挑む」と記されています。つまり、獣が君臨する「大患難の時期」に「聖徒」が存在するということです。
大勢の人が「殉教」することになるでしょう。
「第五の封印」が解かれたときに御使いが言ったことばが思い出されますね。
大患難時代に「殉教」する人々は、この「第五の封印」でなだめられた人々の仲間入りをするのではないかと私は思います。
苦しみの中で宣教し、たましいを勝ち取る人々が存在するのだと思うと胸が熱くなります。
彼らは「迫害」に屈服することなく、イエス様を宣べ伝えます。また、それを聞いて「信じる人々」も「いのちを懸ける」ことが必要になります。それでも「数えきれないほど大勢の人」が「子羊の血」で白くされることを選ぶのです。
イエス様は言われました。
大患難時代には「文字通り」に、イエス様のことばが試されます。
彼らにとって「信仰告白」することは「いのちを失うこと」です。つまり「死」を意味します。
それでも、多くの人々が「イエス様にあるいのち」を選ぶのです。
私はどうだろうか、と真剣に考えずにはいられません。
「終わりの時代に生きているのだ」というメッセージを発信していながら、危機感の薄さは否めません。
リバイバルを真剣に求めているだろうかと自問せずにはいられません。
「自分を捨て」て、主イエスに従っているだろうか。「自分の十字架を負って」従っているだろうか。
「主よ、主よ」と呼びかけながら、不満を述べ、不足をつぶやいていないだろうか。
数えきれないほどの大勢の群衆を、もう一度見てください。
彼らは「なつめ椰子の枝」を持っています。それは「勝利の象徴」です。
彼らは、心の底から「主イエスを勝ち誇って」賛美をささげているのです。
その昔、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、人々は「なつめ椰子の枝」を持って出迎えました。彼らは「勝利の王」としてイエス様を歓迎しました。「なつめ椰子の枝」を手にかがげて喜んだのです。
ある人は言います。「あの日、キリストはエルサレムに入城されたのではない、むしろ、退城のために入られたのだ」と。
彼らは「大歓声」でイエス様を迎えましたが、ほんの数日後に「怒号」をもって十字架にかけたのです。
彼らの望む勝利は、地上の生活に結びついたものでした。彼らは、ローマの圧政からの解放、パンを食べて満腹になること、地上で良い生活を送ることを求めていました。それが、彼らの望む勝利でした。
しかし、イエス様が与えてくださる「勝利」は、常に「天」と結びついているのです。
私たちの「望み」は、どこに結びついているでしょう。
いつの時代であっても、どこに住んでいても、私たちの望みは「キリスト」です。私たちの「望み」は「天」に結びついていなければなりません。
心を尽くして、主をお迎えしましょう。私たちは「天」に結びついた望みを掲げて、勝利の王をお迎えしましょう。今、見えるところがどのようであっても、主は勝利です。
やがて天にて、私たちも子羊の御前に立ちます。
私たちは「殉教」するようなことにはならないだろうと思います。大患難の恐怖を味わうこともないと信じています。
けれども、今、生かされているこの時を、自分のためでなく「主のために生きる」ことは、いつの時代の聖徒であっても同じです。
私たちも、日々、自分を捨ててイエス様に従いましょう。心を尽くして、すべてを尽くして、主を愛しましょう。
そうして、いつの日か、主にお会いする日を待ち望みましょう。
願わくば、主から「よくやった。良い忠実なしもべよ」と言っていただけますように。
彼らの上に幕屋を張られる
長老の一人が続けて言います。
これは素晴らしいみことばですね。
ここには「エデンの回帰」があるように感じます。いえ、それよりももっと素晴らしいものです。
白い衣を着た群衆は「神殿で神に仕えて」います。つまり、彼らは「神の祭司」です。
彼らは「この人たちは大きな患難を経て来た者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くした」ゆえに、神に仕える者とされたのです。
しかし「子羊の血で洗われた」のは、私たちも同じです。私たちは、今すでに「王である祭司」です。
天において、私たちも「昼も夜も」神に仕えます。素晴らしいですね。
そして、主は、私たちのうちに「幕屋を張られる」のです。
これは、イエス様が地上に来られたときに、ヨハネが記したことばと同じです。
「住まわれた」という語と「幕屋を張られた」という語は、原語では同じです。
つまり、イエス様は初臨のとき「私たちの間に幕屋を張られた」と訳すこともできるのです。
そして、逆もまた同じです。
天において「御座についておられる方も、彼らの間に住まわれる」のです。
イエス様が、地上に生きておられたとき、使徒ヨハネは「私たちはこの方の栄光を見た」と言っています。
ヨハネは、3年半の間、主イエスにつき従いました。イエス様の御顔を見て、笑ったり、質問したり、一緒に食事をしたりしたのです。
天において、そのことが再び起こります。具体的に「どのようにして」なのかは分かりません。
しかし、私たちは「神の栄光」を見るでしょう。「恵みとまことに満ちておられる方」の素晴らしさを味わうことができるでしょう。
「そよ風」が吹くかどうかは分かりませんが、アダムの名を呼んで交わりを楽しまれた方は、私の名を呼んでともに歩いてくださるだろうと、私は信じているのです。
しかし、だからと言って、今、主が「遠い方」であると思わないでください。
私たちのうちには御霊がおられます。私たちはすでに、最も近しい方として、主と一緒に生きています。
ただ、今は「信仰によって」歩まなければなりません。この地にいる間、私たちは「目に見えない方を見ているようにして」歩み続けなければなりません。
「インマヌエル、主はともにおられる」
信じて歩みましょう。主は、決して私たちを見捨てられることはありません。
もし、この数えきれない大群衆が「大患難」をくぐりぬけて来たとすれば、彼らにとってはこの上もない慰めでしょう。
獣の刻印を受けなければ「売ったり買ったり」できない時代に、彼らは生きることになります。「飢えや渇き」に苦しむのかもしれません。「太陽の炎熱」を避ける家を失うのかもしれません。主は、慰め主です。彼らに豊かに報いてくださると信じます。
いずれにせよ、この聖句は「地上で患難に遭っているすべての人」にとっても同じように慰めです。
主は、今、あなたが経験している苦しみをご存知です。何もかもを知っておられます。
主は、あなたが失ったものをご存知です。主のために手放したものをご存知です。
世に逆らって立つあなたの覚悟を知っておられます。主のために受けた「ののしり」も知っておられます。
「侮辱」された屈辱も知っておられます。痛みも、悲しみも知っておられます。
あなたの涙は覚えられています。
愛する兄弟姉妹。
あなたは、決して、主に忘れられることはありません。
どんなに苦しいことがあっても…
「主は、私をお見捨てになったのか」と感じるようなことがあっても…
それでも、主はあなたを覚えておられます。
「望み」を天に置くことを忘れないでください。見えている世界は「すべて」ではないのです。
あなたは、何ゆえ「主の愛から引き離された」と感じているのでしょう。
あなたに起こった「その事」は何ですか?
あなたが「引き離された」と感じていることが何であれ、主は「そのこと」すら用いて、もう一度、あなたを「みそばに引き寄せる」ことがおできになります。
敵は策略を用いて、あなたを「引き下ろす」でしょう。そして「神から引き離してやった」と喜ぶでしょう。
しかし、主は、その策略さえも用いられます。そうして、前よりもっと「引き寄せ」、もっと「引き上げて」くださるでしょう。
イエス様は「羊飼い」です。
今も、そして永遠に「羊飼い」です。
イエス様は「永遠の契約の血による大牧者」です。
私たちのために流された「血」は、永遠に有効です。私たちは永遠に「血」によって受け入れられます。
今、血による契約のもとにあるならば、私たちは「永遠に神のもの」です。
「子羊の血」で、その衣を白くした大勢の群衆は「大牧者」のもとに安らぎを得ます。
詩篇23篇を「天国の詩篇」と呼ぶ人もいます。ダビデは、地上で「天国」を味わって生きたのです。
子羊であり大牧者である方が、私たちを永遠に導かれます。
私たちは一緒に告白しましょう。
「主は私の羊飼いです」
ダビデが「この世」で天国を描き出したように、私たちも「御国の心地す」と歌いながら歩むことができます。
いのちのある限り、主の御名をほめたたえ、主にのみ従って歩みましょう。
祝福を祈ります。

