No.478 「感謝」は門を通るための「鍵」です

門と犬

詩篇100:4
感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ
主に感謝し 御名をほめたたえよ

そこは「門の外」なのです。

この詩篇には、主の聖所に近づくための方法が記されています。

ある人は言いました。

「神の幕屋の門にはセキュリティーゲートがある。感謝と入力しなければ、その門をくぐることはできない」

面白い言い方ですね。しかし、まさにその通りだと思います。

私は、問題を抱えて、主のもとに行きます。今すぐにでも答えが欲しいと願っています。

しかし、そのようなときに限って、なぜか「臨在」が遠く感じるのです。主が、ここにおられないように感じてしまうのです。

祈っても祈っても心配が募ります。平安を得ることができません。

「ああ、主よ。あなたはどこにおられるのですか。主よ、私を見放されたのですか」

そんなことはあり得ないと分かっていても、そう思ってしまうのです。

そうして「あれが足りないのか」「どこが間違ったのか」「何から落ちてしまったのか」などと考えだしてしまいます。

「主よ、どうかお赦しください。私が何か間違っているのでしょうか」などと、的外れな「悔い改め」をし始めるのです(笑)

なぜそのようなことになるのでしょう?

それは、私が「門に入る鍵」を用いていないからです。「門にはいっていないのだ」ということに気がついていないからです。そして、いつまでも「行い」によって近づこうとしているからです。

主が「遠く」におられるのではありません。私の「行い」は関係ありません。

主は、いつも両手を広げて待っておられます。

「遠く」に感じるのは、私が「門の外」にいるからなのです。

詩篇100:4
感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ
主に感謝し 御名をほめたたえよ

主の門の鍵は「感謝」です。

私は「感謝します」と言って、門をくぐればよいだけです。

「主よ、主よ」と声が涸れるほど叫んだとしても「門」をくぐることはできません。

「感謝」を持たない人は「門」から入ることはできないのです。

主の臨在が「遠く」に感じられるならば「感謝」をすることです。

これは「神学」ではありません。ただ、これが「効果的だ」ということを私は「知っている」だけです。

抱えている問題を足もとに置きなさい。そうして、両手を上げて「感謝します」と言うのです。

そうすれば、私たちは「門」をくぐって、聖所にたどりつくことができます。

「感謝」こそ、門を開く鍵なのです。

主よ、感謝します
私は感謝をもって門に入ります
私は感謝をささげて近づきます