黙示録7:3
私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。
その後「四人の御使いを見た」のです。
私たちは、続けて「七つの封印」について学んでいます。
前回は「第六の封印」が解かれたところまでを学びました。
今まで、使徒ヨハネが見ている幻の中においては「封印」は、間髪入れずに、次から次へと解かれていくように見えました。
しかし「第六の封印」が解かれた後、使徒ヨハネが見たのは「四人の御使いたち」でした。
まだ「第七の封印」は解かれません。巻物は、まだ完全には開かれてはいないのです。
「その後」というのは「第六の封印が解かれるのを見た後」という意味です。
順番として、第六の封印が解かれた後、続けて以下のことが起こるのかは定かではありません。
ただ、使徒ヨハネは「第六の封印が解かれた幻を見た後」で「七章の一連の幻を見た」のです。今のところ、はっきりと言えるのはそれだけです。
地の四隅に四人の御使いがいます。彼らは「風」を押さえつけています。
多くの注解者が、この「風」を「神のさばきの風」だと言っています。
「地」「海」「木」が何を象徴しているのかは分かりません。
「地」をイスラエル、「海」を世界(異邦人)、そして「木」は人々を表すという解釈もあるようです。
とても興味深い解釈だと思います。
また、文字通りに「地」「海」「木」であると受け取ることもできますね。個人的には、文字通りに受け取っても問題はないと考えます。
いずれにせよ、この世界に「風」が吹きつけるのは確かなようです。
ここで「四人の御使い」の役割が明らかにされます。
彼らは「地にも海にも害を加えることを許された御使い」なのです。
彼らは、本来「押さえつける役目」ではなく「吹きつける役目」なのです。
彼らが押さえつけている「風」は、さわやかなものではなく「害」をもたらすものです。
これはエラムのさばきを語ったエレミヤの預言です。黙示録には直接、関係はありません。
しかし、この箇所によって、主が「風」を吹きつけられる目的が「散らすため」であることが分かります。
御使いが押さえつけている「風」がこの世に吹きつけると、地に住む人々は「吹き散らされる」でしょう。それは、本当に「強風」が吹くからではなく、何かしらの「わざわい」のためです。
主がエラムに吹きつけられた「風」は「燃える怒り」でした。エラムの場合、その実態は「剣」であったようです。
黙示録の四人の御使いが押さえつけている「風」が吹きつけられるとき、人々にどのような「わざわい」が迫るのかはわかりません。
ただ、それは人々を「うろたえさせる」ものであることは間違いないでしょう。それは確実に「害」をもたらすものなのです。
神のしもべたちの額に印を押すまでは
使徒ヨハネは「別の御使い」が来るのを見ました。つまり「五人目」の御使いです。
もう一度、黙示録7章2節を読みましょう。
「五人目の御使い」は、日の昇る方からやって来ました。ヨハネは、この御使いが「生ける神の印」を持っているのを見ました。
「五人目の御使い」は、先の「四人の御使い」より階級が上のようです。「五人目の御使い」は、主の命令を携えてやってきました。
「五番目の御使い」は「私たちが」と言っています。使徒ヨハネは、言及していませんが、他にも「生ける神の印」を持った御使いがいたのだろうと思います。
「生ける神の印」がどのようなものなのかは分かりません。ただ、その「印」が押される目的は分かります。
それは「害を加えられないため」です。この「印」を押された人々は、主の御手によって保護されるのです。
神の「さばきの風」は、定められた時に必ず吹きつけます。しかし、主は、その前に「備えの時」を与えてくださいます。
どんな時代でもそうなのです。主は「前もって」なされることをご自分の預言者にお伝えになるのです。
ソドムとゴモラの裁きの時も、アブラハムにお伝えになりました。
イスラエルがバビロンに捕囚になることも、多くの預言者に告げておられました。
そして、今、私たちは「御子」によって語られた預言のことばを学ぶことができます。そして、聖霊に満たされた現代の預言者たちの「ことば」を聞くこともできます。
パウロは言います。
「突然だ」と思うのは「準備ができていないから」です。「眠っていたから」です。
確かに「いつ」ということは、すべてにおいて全くわかりません。
「いつ」主イエスが再臨されるのか、私たちにはわかりません。
今こそイスラエルを再興してくださるのですか、と尋ねた弟子たちにイエス様は言われました。
「いつとか、どんな時とかいうこと」は、私たちが知るところではないのです。
ですから、どれだけ祈りもとめても「日時」が示されることはありません。
反キリストの出現や、大患難の「日時」を明言する人は「偽預言者」です。
イエス様の再臨の「日時」を明言する人も「偽預言者」です。
私たちは、それが「必ず起こる」ということを知っているだけです。そして、その間「目を覚まし、身を慎んで」いるだけです。
愛する兄弟姉妹。
終わりが近いと、至る所で叫ばれている「今」こそ、惑わされないようにしましょう。
私たちは、まず「御子」が言われたことに耳を傾けましょう。
神は「この終わりの時代には、御子にあって」語られます。
私たちは、まず主イエスの言われたことをよくよく学びましょう。とにかくそれが「基礎」なのです。それが「土台」です。
「土台」が、イエス様でないと、その上に積み上げるものはすべて「意味をなさない」ことになります。
イエス様のことばを学びましょう。そうすれば、この世に飛び交う多くの情報から「真理」を聞き分けることができるでしょう。
終わりの時代には「多くの偽預言者」が出ます。しかし「偽者」がいるということは「本物」もいるということです。
「本物」の預言者を見分ける方法は、イエス様が教えてくださっています。
見分ける方法は2つです。
まず、私たちが「神のみこころを行なおうとする」ことです。自分の意志ではなく「神のみこころが成りますように」という態度で生きることです。そうすれば、その語られていることが「神から出たものなのか」分かります。
もう一つは、その語っている人が「自分の栄誉を求めているか」どうかです。「自分からでたもの」を語る人は「自分の栄誉」を求めます。「神からでたことば」を語る人は「自分を遣わされた方の栄誉」を求めます。
私たちは、イエス様の語られたことを心に留めて歩みましょう。主のことばを学ぶのです。
そうして、目を覚まし慎み深くしていましょう。
そうすれば「突然」携挙があったとしても大丈夫です。それは、あなたを怯えさせるものではないでしょう。あなたは祝福に引き上げられるのですから。
さて、かなり脱線しましたね(笑)
本文に戻りましょう。
14万4千人の人たちに印が押されました
使徒ヨハネは、印を押された人々の数を聞きます。
「額に印を押される人」は「十四万四千人」です。
この「十四万四千人」について、様々な意見があります。それは、まあ、いろいろな考え方があります。
けれど、私は、ここに「象徴はない」のではないかと思います。つまり「書かれているとおり」であると考えます。
この「14万4千人」は、大患難時代に「イエス様に付き従うように召された人々」であると思います。
そして、彼らはみな「イスラエルの子ら」です。
「イスラエルのあらゆる部族から」と書かれていますから、そこに「部族に含まれない人」はいないのです。つまり「異邦人」は一人もいません。
四節で、有名な「十四万四千人」が出てきます。この人々は、イスラエル人伝道者で、患難時代に伝道に励み、多くのイスラエル人を救うことになります。
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この「十四万四千人」は、神の「時」が来るまで「一切の害」から守られるだろうと思います。
エゼキエルの時代にも「額にしるし」をつけられた人々がいました。
エゼキエルは「腰に書記の筆入れ」を付けた御使いを見ました。そして、主がその御使いに命じておられることを聞きました。
主は「忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる者たち」に「しるし」をつけるようにと言われたのです。
そして、続けて命じられました。
エゼキエルは、恐ろしいことが起こるのを見ました。今回は、エゼキエル書の学びではないので詳しくは見ません。機会が与えられれば、いつかエゼキエル書を学びたいと思います。
今は、主が「しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない」と言われたことに注目しましょう。
エゼキエルの時代に起こったことが、そのまま繰り返されるとは思いませんが、似たようなことが患難時代にも起こるのだろうと思えますね。
多くの人々が「風」がもたらす「害」を被る時、神の印を押された「14万4千人」は神の保護下にあって守られるのです。
この後に、部族名ごとに「一万二千人」に印が押されるという記述が続きます。
これは、主が「イスラエル」を扱われる時の特徴であるとように思います。
主は「イスラエルの子ら」に対しては、よく「数字」を用いられます。私は数字が苦手ですから、民数記などを読んでいると「頭痛」がします。
主は、創世記で、ヤコブの一族がエジプトに下った時の人数を記録しておられます。
また、エズラ記には、捕囚から解かれてエルサレムとユダに上った人々の人数も記されています。
そう考えると「一万二千人」の記述も「そのままの数」と考えるのが妥当なのかなと思えます。
ただ、なぜ「一万二千人」なのかということについては分かりませんね。
多くの注解者が「完全数」だからと言っています。そうかもしれません。また、もしかすると「人数」は象徴的なものであって「多くの人」という意味なのかもしれません。
確かなことは、この「十四万四千人」のイスラエルの子らは「救われる人の総数」ではないと言うことです。
私はもっと多くの人が救われると信じています。
この「十四万四千人」は、何か「特別な使命」を帯びた人々です。黙示録14章で、また詳しく学びますが、彼らは「子羊に献げられる初穂」なのです。「初穂」なのですから、それに続く「収穫がある」ことは明白です。
さて、準備は着々と整って行きます。
「神のしもべら」の額に「生ける神の印」が押されていきます。
恐らく、ここから「患難時代」が始まるのでしょう。
救いを失いはしないでしょう、けれど…
さて、この「十四万四千人」の部族のリストをよく見ると不思議に思うことがあります。
ここには「ダン部族」の名前がありません。
数えてみると「12部族」いるように見えますが「ヨセフ族」が二つに分かれて記述されているからですね。
「マナセ族」は「ヨセフ族」の片割れです。(ここが、なぜ「エフライム」と「マナセ」と記述されていないのかは、また別の謎です)
さて、なぜ「ダン部族」の名前がないのでしょう。巷で言われているように、彼らは「失われてしまった」のでしょうか。もちろん、それはあり得ません。
先ほども述べましたが、この「十四万四千人」は「救われる人の数」ではないのです。
これは「子羊の後にどこまでも付き従う人々の数」です。彼らは、おそらく「主の道を伝える人々」でしょう。
「ダン部族」は、そこに含まれていないだけです。なぜ、含まれていないのかは定かではありませんが、主がそのように「印」を押されたのです。
多くの注解者が「ダン部族」と「偶像礼拝の関り」について指摘しています。
ダン部族は、士師記の時代に「自分たちのために彫像を立てた」と記されています。彼らは、いち早く「偶像礼拝」に染まった部族です。また、ヤロブアムの金の子牛が置かれた場所の一つが「ダン」です。「ダン」は、偶像礼拝の中心地となりました。
しかし、だからと言って「名前が省かれている」理由にはならないような気もします。
聖書には二十九回、十二部族の一覧表が出てきます。数え方によっては、三十回か三十一回になるかももしれません。~中略~
そして、それ以降に出て来る一覧表を一つ一つ調べてみると、そのほとんどが変則的なものです。その理由を明確にすることは困難ですが、私は次のように考えます。旧約時代のイスラエルの民は、十二部族全体が神の忠実であったことが一度もありませんでした。そのために、しばしば十二人の順序が入れ替わったり、だれかの名前が省かれたりしているのではないでしょうか。
黙示録 J・B・カリー著 伝道出版
つまり今回は、ダン部族に「一万二千人」の忠実な者が見当たらなかったということです。
私も、ぼんやりとですが、そのような気がしています。
しかし、確かに「あらゆる部族の者」に印が押されていると書いてありますから、ちらっと「ダン部族」もどこかに混じっているのではないかとも思えます。もし、混じっているとすれば「ヨセフ族」に入っているのではないでしょうか。それが「エフライム」と記されていない理由なのかもしれません。
さて、大切なことはここからです。私たちは、この「あらゆる部族のリスト」から何を学ぶことができるでしょうか。
「ダン部族」は、終末の時代、「特別な使命」を行う特権にあずかることはできなかったのかもしれません。
しかし、何度も言っているように「救い」を失ったわけではありません。
「これがダンの分である」と主が言っておられます。
エゼキエル48章には「千年王国時代のイスラエルの割り当て地」が記されています。ここには「ダンの分け前」もちゃんと記されているのです。まず「ダン」の割り当て地から発表されています。
「ダン部族」は、決して失われてなどいません。
「いつ」とか「どのようにして」ということは分かりません。
ただ「約束された方は真実である」ので、このことは必ず成るのです。
「ダン部族」は、確かに罪深い部族なのかもしれません。しかし、主は「わたしが彼らの罪を取り除く」と約束されたのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、必ず救われます。今、すでに救われています。
私たちにも「御国」に住む場所があります。イエス様が備えてくださっています。それは失われることはありません。
しかし、今は、もう一つのことを覚えたいのです。
ダン部族は、千年王国にはいますが、彼らは大艱難時代に証しをするという目的で、印を押されることはありません。この部族は、とても多くのものを失ったと思います。
Thru The Bible J・バーノン・マギー神学博士(福田弘之師による日本語版より)
ダン部族が「印を押されなかった理由」は分かりません。けれど、彼らが「印を押されなかった」ことは事実です。(もしかすると、少しは混じっているかもしれませんが)
彼らは「火の中をくぐるようにして助かった人たち」に似ています。
大患難時代に「子羊に従う」ことは、とてつもなく「苦しいこと」だと思います。
「十四万四千人」の人々は「風の害」から守られはするでしょうが、患難が待ち受けているであろうことは確かです。しかし、それでも彼らは「子羊」といつも共にいることができます。
彼らは「この地のすべて」を失うでしょう。しかし、「主イエス」を得るのです。
その関りの特別さは「永遠のもの」です。彼らには、彼らにしか学ぶことのできない「新しい歌」を歌う特権が与えられるのです。
ダン部族は「千年王国」に相続地は得ますが、「子羊との特別な関り」を経験する機会は逃すのです。
あなたはどうでしょう?
「救われた」ことは喜びです。もうそれで十分だと思えるほどに素晴らしいことです。永遠のいのちが与えられたのですから。
しかし、それでも私はやはり「特別な関り」を得たいと望まずにはいられません。
私たちは「大患難の前」には携挙されているでしょう。私はそう信じています。
それにイスラエル人でもありませんから「十四万四千人の新しい歌」を学ぶことはできません。
しかし、この与えられた人生を「主イエスとともに歩む」なら、そこに「主との特別な関り」が与えられると信じます。私にしか歌えない「新しい歌」を学ぶことができるかもしれません。
私たちは「地上のもの」を何一つ持って行くことはできません。
けれど「主と育んだ心」は別です。「主との経験」も別です。私たちは「主イエス」を求めて生きましょう。
ただ「主イエス」だけを仰いで生きましょう。「火の中をくぐりにけるようにして」ではなく、心に「主イエスのいのち」を豊かにあふれさせて救われましょう。
主との「交わり」「関係性」は、永遠のものであることを忘れないでください。
「地上のもの」を得ることはできなくても、あなたは「主イエス」を得ます。
私は常に「地上では旅人」であることを覚えて生きたいのです。
主との関係は「永遠のもの」です。
あなたにしか歌えない「新しい歌」があると私は信じます。
主は、あなたの「関係性」を深め、あなたとともに歩むことを望んでおられるのです。
祝福を祈ります。

