No.475 まず「神のみこころ」を行なおうと決めることです

階段と男の子

ヨハネ7:17
だれでも神のみこころを行なおうとするのなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。

見分けることは可能なのです

終わりの時代に生きる私たちが、最も注意するべきことは「惑わし」であると私は思います。

イエス様は言われました。

マタイ24:11
また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。

終わりの時代には「偽預言者」が大勢現れるのです。

「大勢」の偽預言者です。これは、困りましたね。

私たちは「霊」だからと言って何でも信じてはなりません。それは「吟味」されるべきなのです。

しかし、同時に忘れてはならないこともあります。

「偽者」が存在するからには「本物」も必ず存在すると言うことです。

「神のことば」を混ぜものなしに真摯に告げる預言者も必ず起こされるのです。

そして、それを見分ける責任は「私たち」にあるのです。

だからと言って、何もかもを疑心暗鬼になって遠ざけてしまうことはありません。

見分けるために、誰もかれをも「疑ってかかる」なら、私たちは人間不信になってしまうでしょう。人とは、信じる対象ではなく、愛するものです。

「人のうわべ」を信用してはなりません。ただ「愛すること」です。

「耳障りのよい言葉」だからと言って何でも受け入れてはなりません。

かといって「厳しいことば」を語る人が「神の人」だとは限りません。

途方に暮れますね。いったい、私たちはどうすればよいのでしょう。何を見て見分ければよいのでしょう。

ヨハネ7:17
だれでも神のみこころを行なおうとするのなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。

イエス様は「だれでも神のみこころを行なおうとするのなら」と言われました。

つまり、まず「その人」を見分けようとする前に「自分の態度を決める」必要があると言うことです。

もし私たちが「神のみこころを行なおう」と決めているならば、その語られる教えが「神から出たものかどうか分かる」のです。

けれど、私たちが「神のみこころ」ではなく「自分のこころのまま」に生きているならば、おそらく私たちは「惑わされて」しまうでしょう。

私たちはまず「神のみこころ」を熱心に求めましょう。

「神のみこころに生きる」ことを切に切に求めましょう。

そうすれば、教えの風に吹き回されることはないと私は信じます。

聖霊様が、必ずあなたを導いて、必要な「教え」を与えてくださるでしょう。

私は「神のみこころ」を求めます
主よ、あなたのみこころをを行うことを教えてください
聖霊様の導きに委ねて生きることを教えてください