黙示録3:20
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
夕食に招かれたいと望んでくださいます
イエス様は、戸の外に立っておられます。
この箇所を読むたびに驚くのは、これが「教会の戸の外」であると言うことです。
イエス様は、戸を「たたいて」おられます。
戸を通り抜けて中に入ることも、命令して開けさせることもおできになるはずですが、そうはなさいません。
なぜなら、主は「招かれたい」と望んでおられるからです。
「入って来られたのだから仕方がない」という態度で迎え入れられたくないと思っておられるのです。
あなたは「喜んで」イエス様を迎え入れますか。
私たちが、戸を開けるなら、「わたしはその人のところに入って食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とイエス様は約束しておられます。
この「食事」とは「夕食」のことです。原語では「正餐」「夕食」を意味する語が使われています。
思い出してください。神様の時は「夕」に始まるのです。つまり「夕食」は最初の食事です。
イスラエルでは、夕食の時に「これからの計画」を話し合うという習慣があったそうです。彼らにとっての「一日の始まり」に、その日をどのように過ごすのかを話し合うわけです。
イエス様は、あなたに「夕食をともにしよう」と言ってくださいます。
つまり「今後のことを一緒に話し合おうじゃないか」と言っておられるのです。
私たちは、一日を「主とともに計画」しているでしょうか?
私たちは、これからのことを「主と話し合って」決めているでしょうか?
夕食が終わった後で、イエス様に気がついて「戸を開ける」などということがないでしょうか。
何もかもを計画してしまった後に「では主よ、この計画がうまくいくように、どうか助けてください」などと祈っていないでしょうか。
ラオディキアにある教会は「見た感じ悪くない教会」でした。特に問題もなく、乏しいこともなく、むしろ「富んでいる」教会でした。
彼らは「教会行事」を定期的に行っていたでしょう。日曜日の礼拝、祈祷会、もしかすると「バザー」や「伝道集会」なども行っていたかもしれませんね。
しかし、彼らの「集会」に、イエス様はおられません。主イエスの御名を掲げて「キリスト教会」と呼ばれていても、そこにイエス様ご自身はおられないのです。
なぜなら、ラオディキアの教会は、イエス様を「夕食から閉め出した」からです。イエス様と「話し合い」をしないで決めた「計画」に「神の臨在」が伴うことはありません。無事に終えることができても、盛況に終わったとしても、主がおられないなら「何の意味」があるのでしょう。
愛する兄弟姉妹。
戸の外に立っている方を、急いで私たちの「夕食」にお招きしましょう。「主賓」としてお招きしましょう。
イエス様とともに食事をする特権を喜びましょう。私たちは、毎日、イエス様と食事ができる幸いにあずかっているのです。
主イエスと「話し合い」ましょう。みことばを「食べて」ともに過ごすのです。
主は「あなたの今後」に関心を持っておられます。「あなたが何を思っているのか」を聞きたいと望んでおられます。主は「あなたの不安」に耳を傾け、「あなたの望み」を微笑んで聞いてくださいます。
そして、あなたは「これが道だ。これに歩め」と言われる御声を聞くことができるでしょう。
戸を開けましょう。「主よ、どうぞ中にお入りください」と言いましょう。
私たちは、常に、主とともに歩みましょう。
主は、私の今後に関心を持っておられます
主は、私と食事をしてくださいます
私は、主の御声を聞くことができます

