No.471 生ける望みを持たせてくださいました

シャボン玉と赤ちゃん

Ⅰペテロ1:3
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ生ける望みを持たせてくださいました。

それは「持たせられた望み」です

私たちは「生ける望み」を持っています。

新共同訳では「生き生きとした希望」と訳されています。原語を直訳すると「生きている望み」「いのちを持っている望み」という感じでしょうか。

主は、私たちに「生ける望み」を「持たせて」くださいました。

言い換えるなら、私たちは「生ける望み」を「持たされた」ということです。

つまり、自分の力で「望み」を持つことはできないと言うことです。

私たちが、どう思おうと、私たちが持っている望みは「生きている」のです。

「ああ、もうだめだ。私に望みはない」と、あなたが思ったとしても、主が「持たせて」くださった「望み」は「生きて」います。

「あいつは、もう終わりだ」と、誰かの言うことばが聞こえたとしても、確かに状況がそれを肯定しても、それでも「望み」は「生きて」います。

覚えてください。

「生ける望み」とは「新しく生まれた者」だけに与えられるものです。

それは「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」もたらされる「望み」なのです。

「生ける望み」とは「奥義」なのです。それは聖徒だけに特別に「持たせられたもの」です。

サタンは、それを苦々しく思っています。ゆえに「生ける望み」を隠そうとしてくるのです。

多くの聖徒が「自分には望みなどない」と肩を落として歩んでいます。サタンは、そのことをとても喜んでいるでしょう。

コロサイ1:27
この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだもであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

私たちの「望み」とは「キリスト」です。この方こそ「栄光の望み」です。

サタンが隠したいのは、この望みです。そして、神が「知らせたい」と思われるのも、この望みです。

イエス様がおられる限り、私の「望み」が失われることはありません。この方こそ「生ける望み」です。

「もうだめだ」と思うならば「よみがえりの主」を仰ぎなさい。そして、この方が「うちにおられるのだ」と告白しなさい。

「もう終わりだ」とささやく声には「よみがえられた方の御名」によって立ち向かいなさい。

神が「持たせて」くださった「生ける望み」を信じなさい。

アブラハムが抱いた「望み」とは、「この望み」です。アブラハムは「生ける望み」を信じたのです。つまり「神ご自身」を信じたのです。

私たちのうちには「生ける望み」があります。「キリスト、栄光の望み」が与えられています。

見えるすべてが「終わり」を告げるとき、「生ける望み」が輝くのです。

イエス様は、あなたは「生ける望み」です
イエス様、あなたは「栄光の望み」です
イエス様、今、生きているのは私ではなくあなたです