黙示録6:12
また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
第六の封印が解かれると…
さて、子羊が「第六の封印」を解かれます。
少し長いですが、6章12節~14節までを読んでみましょう。
「第六の封印」が解かれると、もはや「終わり」なのだとしか言いようのない事態になります。
「大きな地震」「太陽と月の変容」「空の星の落下」「地形の変動」が続けて起こります。
「第六の封印」が「いつ」のことを表わしているかについては、いつものことながら確定はできません。
「大患難時代の始まりの合図だ」という人もいます。
「再臨の前の大地震だ」という人もいます。
「千年王国の終わりに起こることだ」という人もいます。
個人的には「大患難時代の始まりの合図」ではないかと思っています。前回までの学びも、その解釈にそって進めています。
しかし、イエス様は、ご自身が来られるときのことをこのように言われました。(それで、私は迷っているのです)
イエス様が再臨される時には「天に異変が起こる」のです。
また、イエス様が戻って来られるときには「地殻変動」も起こります。
「オリーブ山」は、主が再臨されるとき「真ん中で二つに避ける」のです。恐らく、大地震の影響なのだと思います。
さて、ここは、さらっと流してもらって構いませんが、どのような解釈があるのかを少し紹介しておきます。
異なる解釈を3つだけ引用しておきます。
一つ目は「大患難の幕開けだ」という解釈です。
これは、明らかに大艱難時代の後半の始まりです。主の怒りの大いなる日が私たちの目の前にあるのです。大艱難は、これら自然の宇宙の激変によって幕をあけ、また閉じます。
Thru The Bible J・バーノン・マギー神学博士 (福田弘之牧師による日本語版より)
この解釈によると、同規模の地震が少なくとも「二回」あるということになります。
二つ目は「千年王国の後」という解釈です。
第六の封印は、天変地異です。この天変地異は「天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された」という、天地がなくなる滅亡ですから、終末の最終段階の「地も天もその場所から逃げ去って、あとかたもなくなった(黙示20:11)」
「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない(黙示21:1)」のことなのです。
つまり「七つの封印」は、終末期の全体預言で、最終段階まで、まず啓示されているのです。
世の終わりが来た 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
これも、読めば「なるほどな」と思わされますね。「新天新地」の前に「以前の天と、以前の地は過ぎ去る」のは確かなことです。
三つ目は「黙示録16章19節の大地震と同じである」とする解釈です。
黙示録に記されている自身は、宇宙規模の異変をもたらし、地球全体の様相を一変させるほどのものです。私はこの地震と同時に携挙が起こると信じています。~中略~
ここでは、黙示録が一つの地震を五つの側面から描いていると言う解釈は、決してこじつけではなく、黙示録全体を非常に分かりやすくする鍵であることを心に留めておいてください。これが宇宙規模の地震であることは疑いようがありません。
地震 終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
「携挙」に関しては、今回は深く考えないでください。ただ、この地震が「宇宙規模」であることは間違いありません。このような「宇宙規模」の地震に、人類が何度も耐えられるはずがない、ゆえに「地震は1回」だろうという考えには一理あるなと思わされますね。
「第六の封印」が「最後の大地震」なのか「大患難前の大地震」なのかは、大いに迷うところです。
私としては、すっきりと「第一から第六までは大患難前のこと」で「第七の封印から大患難が始まる」として「まとめたい」というのが素直な気持ちです(笑)
しかし、すっきりと「まとまらない」のが黙示録の面白いところでもありますから、決めつけることをしないで学びを深めていきましょう。
神の御怒りの激しさ
それは、さておき…
「第六の封印」が解かれたとき「天変地異」が起こることは間違いありません。
人々は、洞穴と山の岩間に身を隠すと記されています。
身分の別に関係なく、生き残っている全ての人が「洞穴や山の岩間」に隠れます。そのとき、人間の手で造られたすべてのもは「役に立たない」のです。
お金持ちたちが所有しているであろう「シェルター」も、おそらく意味をなさない無用の長物と化しているのでしょう。人の技術がどれだけ高度になっても、神の御怒りに太刀打ちできる物を造り出すことはできません。
その日、お金は役にたちません。身分も関係なくなります。軍人も力ある者も隠れます。身分の高い人と、奴隷とされていた人が同じ洞穴に隠れます。
しかし、このような「大きな地震」のあとで、世界中で生き残っている人はどれぐらいいるのでしょう。
ここから、もし「大患難」が始まるとすれば、なおのことです。
主は、罪人を「根絶やしにする」と言われます。
実際に、人は「ほとんど」存在しなくなるのではないかと思えます。
主は「人を純金よりもまれにし、金よりも少なくする」と言われるのです。
「青ざめた馬」が世界を駆け巡っています。「死」と「よみ」が地上の四分の一を支配します。
この後、大患難が起こるなら、ますます地上から人が消え去っていくでしょう。
主が、再臨されるとき、この地上に残され、主を見上げる人々は、私たちが想像するより、はるかに「少ない」のかもしれません。
神の御怒りの激しさを改めて思い知ります。
神の怒りに「耐える」ことのできる人はだれもいません。
人にできる最善のことは「御怒りを受けないようにする」ことだけです。
私は「今、主にある聖徒」は、御怒りを受けないと信じています。
あなたが「キリストのもの」であるならば、あなたは「御怒りを受けない」でしょう。
しかし、私たちは「恐れる心」を持ちましょう。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、キリストにとどまり続けましょう。主の愛の中にとどまりましょう。
そして、今まだ、主にとどまっていない人々のために心を尽くして祈りましょう。本来、野生のオリーブである私たちでも「接ぎ木」されることができるのです。主のあわれみに依り頼み祈り続けましょう。
また、本来「栽培された枝」であるイスラエルのためにも祈りましょう。終わりの時代、ますます彼らのための祈りが必要であると感じます。彼らは、主のものです。
主は「すべての人が救われる」ことを望んでおられるのです。
御怒りに「あった」ときには、もう遅いのです。子羊の怒りが加わる前に、子羊による救いを求めましょう。
先に「あわれみ」を受けた私たちには、まだ救われていない人々のために祈る責任があります。
終わりの時代に生かされている者として、信仰を掲げて祈り続けましょう。
それらは産みの苦しみなのです
第一の封印から第六の封印までを学んできました。
今、世界中を「四頭の馬」が駆け巡っています。
「白い馬」の惑わし、欺瞞…
「赤い馬」の戦争、分裂…
「黒い馬」の飢饉、乏しさ…
「青白い馬」の疫病、野の獣、剣、死を招く飢餓…
そして、「第五の封印」で見た多くの殉教者たち…
これらの状況を、主イエスは前もって語っておられたと私は信じています。
イエス様は言われました。
弟子たちが「世が終わる時のしるしは、どのようなものですか」と尋ねたとき、イエス様は、まず最初に「惑わし」について語られました。「白い馬」を思わせますね。
戦争や、飢饉や地震が起こると、イエス様はあらかじめ教えてくださっています。赤い馬や黒い馬は、終りの時代を駆け巡ります。
「青白い馬」である「死」は、世界を支配します。「死」とともに「殉教者」も増えるでしょう。
イエス様は、これらのことは「必ず起こる」と言われます。しかし「終わりが来たのではありません」とも言われます。
これらは「前兆」であって「終わりそのもの」ではないのです。
これらは「産みの苦しみ」なのです。しかも、まだ「始め」なのです。
子どもを産むための「陣痛」は、1回だけではありません。それは「何度も」やって来ます。何度も「繰り返し」痛みがくるのです。その痛みは、しばらくすると「引き」ますが、また「再び」やってきます。その間隔は、どんどん短くなっていき、ようやく出産のときを迎えるのです。
「七つの封印」のうち、少なくとも「第五の封印」までは、この「産みの苦しみの始め」であろうと私は思います。
世界は、痛みを繰り返し、その間隔はどんどん縮まっていくでしょう。一旦「平穏」が訪れたように見えたとしても、再び「混乱」が起こるでしょう。
「終わりの日」つまり「終わりの日々」「終わりの時代」です。
「終わりの時代」は「困難な時代」なのです。私たちは、そのことを「承知して」いなければなりません。つまり「どうして、こんな時代になったのか」と慌てふためいてはならないということです。
「困難」とは「やっかい」「辛い」「手に負えない「狂暴な」などと訳すことができます。
終わりの時代とは「やっかいな時代」なのです。それは、私たちの「手に負えない時代」です。それは「辛い時代」です。そして「狂暴な時代」なのです。
確かにそうです。
私は、最近のニュースについていくことができません。犯罪も巧妙で、いったい何に気をつけて、どのように注意すればいいのか、まったく分かりません。「やっかいな時代」です。
また「狂暴な時代」になったなと、恐ろしく思うことも多々あります。私たちは、どのようにすれば「安心で安全」に暮らせるのでしょう。
「ああ、困難な時代が来たな」と嘆くことしかできないのでしょうか。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「時代」に翻弄される必要はないのです。どれだけ「困難」で「やっかい」な時代であっても、聖徒はその「流れ」に従って歩んではいません。
イエス様が「終わりの前兆」を語ってくださったのは「怯えさせる」ためではありません。私たちが「黙示録を学ぶ」のは、恐れて退くためではありません。
イエス様が話された「これらのこと」とは、簡単に言えば「聖霊様」のことです。
確かに、世には「苦難」があります。しかし、私たちには「世」のものとは違う「平安」が与えられています。
「聖霊」がおられるのです。「聖霊」が世から取り去られない間は、「絶対に大丈夫」なのです。
イエスを神の御子と信じる者のうちには、聖霊がおられます。
私たちは「困難な時代」の流れに従うのではなく「御霊」に従って歩みます。「御霊」とともに「キリストの勝利」を宣言しながら歩むのです。
確かに「苦難」はあります。けれど、勇敢でありましょう。イエス様は、すでに勝利を得ておられるのです。
信じて歩み続けましょう。主を愛し、互いに愛し合いながら歩み続けましょう。
イエス様が「すでに世に勝たれた」のなら私も「世に勝った」のです。私たちは、信じていのちを保つ者です。
「産みの苦しみ」は始まったばかりです。それは、まだ続きます。
しかし、私たちは知っています。
この「苦しみ」のあとに生みだされるものがどれほど素晴らしいものであるかを。
もちろん、、まだ「ぼんやり」としか知りません。それでも、それが「はかりしれない栄光」であることは確かです。
私たちの御父は「御子をさえ惜しまずに死に渡してくださった神」です。十字架の贖いは「人の心に思い浮かんだことのないもの」でした。
私たちは、イエス様の苦難を通して「贖われた」のです。「十字架の苦難」が目的だったのではありません。「苦難」によって産まれる「新しい創造」が目的だったのです。
イエス様の十字架の贖いによって、私たちは「新しく生まれた」のです。
古いものは「過ぎ去って、すべてが新しくなった」のです。
同じように「終わりの時代」の産みの苦しみは「大患難」が目的なのではありません。主なる神は、御怒りを注ぎ、地上を滅ぼすことで満足される方ではありません。その後「新しい創造」をされます。私たちの神は、最初から「創造主」であられることを忘れないでください。
この苦難によって「千年王国」そして「新天新地」が産み出されるのです。それは、間違いなく私たちの「想像を超えたもの」です。
「暗い時代だ」「困難な時代だ」「やっかいな時代だ」とつぶやかずに歩みましょう。
私たちの「ことば」を地ではなく、天に蒔きながら歩みましょう。
「時代」に流されず「御霊」の流れに従って歩みましょう。
見えている世界が「どれほど暗く」見えたとしても、あなたの上には、主の光が輝きます。
「見えないもの」を見るようにして忍びましょう。「見えない神」の現実に生きましょう。
キリストにあって、私たちは「すでに世に勝った者」なのです。
祝福を祈ります。

