No.469 すべてに「みこころ」があることを信じます

サマリアの井戸

ヨハネ4:4
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

「行かねばならない」と思われたのは神なのです

イエス様は、ユダヤから再びガリラヤへ行こうと思われました。

さて、当時、ユダヤからガリラヤへ行くルートは三通りあったと言われます。

最短のルートは「サマリア」を通る道でした。しかし、多くのイスラエル人は「サマリア」だけは避けて通りたいと考えました。彼らは、遠回りであっても他の道を選んで移動したのです。

しかし、イエス様は、みなが避ける「サマリア」の道をあえて選ばれました。

それは「サマリヤを通って行かなければならなかった」からです。

つまり、御父の「みこころ」は、サマリアを通って行くことであると確信しておられたからです。

そんな「みこころ」があるのでしょうか?

私たちは、どこかに旅行にいくときに「どの道を通ればよいですか?」「どの交通手段を使いましょうか?」などと、あまり尋ねることはないでしょう。

しかし、この聖句を読む限り、御父は「移動ルート」にでさえ「関心」を寄せられているのだと認めずにはいられませんね。

ヨハネ4:6
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。ときは、およそ第六の時であった。

イエス様は、井戸の傍らに座っておられました。それは「疲れて」おられたからです。イエス様も疲れを覚えられたのです。

けれど、どれほど疲れていても、イエス様は「父のみこころ」をおろそかにはされません。「父のみこころを行うために」ここにいると知っておられます。

もうしばらくすれば「ある女性」がここに来るのです。

私たちは知っていますね。この後、素晴らしいことが起こることを。

しかし「その女性」は、そこに「疲れた男の人」が座っていることを知りません。

しかも、それが「全能の神の御思い」を実現するための「出会い」であるなんて、想像すらできなかったでしょう。ルツ記の「はからずも」を思い出しますね。

イエス様は「父のみこころを行う」ために、そこにおられるのです。

彼女にとっては「偶然の出会い」ですが、御父にとっては「待ち望んだ出会い」です。神ご自身が「会いたい」と望まれたということです。

あなたの「日常」にも、主は「みこころ」を持っておられます。主は、あなたを「待って」おられます。そこで「出会い」「話す」ことを望んでおられます。主との出会いに喜ぶあなたを見たいと望んでおられます。

「主よ、今日の私の行く道を導いてください。あなたに出会いたいのです」と祈ってみてください。

主が「小さなこと」にも関心を持っておられることを信じてください。

あなたの目には「偶然」に見える、その小さなことは、神様にとっては「必然」です。

イエス様はサマリアを「通って行かなければならなかった」のです。それは「父のみこころ」だったのです。そして、それはただ「一人のサマリアの女性」に出会うためだったのです。

すべてに「みこころ」があることを信じます
私の日々に御手のわざを現わしてください
すべては御手の中にあります