ヘブル11:27
信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトから立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。
信仰によってモーセは…
モーセは「目に見えない方を見ているようにして」忍び通したと聖書は言います。
私は、この箇所がとても好きです。なぜなら、モーセをとても身近に感じるからです。
モーセも「見えていたわけではない」ということが分かるからです。
主の御姿が見えればいいのになと思ったことがあります。あまりにも導きが分からなくて「空に雲で行き先を書いてくれませんか」と本気で祈ったこともあります(笑)
私は「見ない方」を「見よう」としていたわけです。それは「信仰者の歩み方」ではありません。
モーセは「見えない方を見ているようにして」歩んだのです。これが「信仰者の歩み方」です。
モーセも「見えていた」わけではないのです。「見ているようにして」忍び通したのです。
「見えていない」ことにおいては、モーセと私は同じです。つまり、私も「見えているようにして」歩むことができるということです。そして「顔と顔を合わせて語る」と言われるほど近しくなれるということです。
私たちの神は「不滅で目に見えない唯一の神」です。「見えない」ことこそ「神の本質」なのです。
主は、私に「視覚」ではなく「信仰」によって歩んで欲しいと望んでおられるのです。
目に見えるものが「すべて」ではないことを学んで欲しいと望んでおられるのです。
私は、信仰によって歩んでいるでしょうか。
多くの場合、私は「見えるもの」によって歩んでいることを認めざるを得ません。
私は「見えるもの」「感じるもの」によって歩んでいることが多いのです。
「見えない方」と親しくなりたいと願うなら「見えるもの」に縛られてはなりません。
サタンは「見えるもの」で私たちを誘惑します。「見えるもの」で恐れさせます。サタンは、私たちの「肉」に働きかけるのです。
私たちは「肉に従って」歩むことはしません。私たちは「信仰」によって歩みます。
「信仰」によって、私たちもモーセのように歩むことができます。
ファラオの憤りを恐れず、エジプトから立ち去ることができます。私たちは、この世を後にして、もう再び、戻ることはありません。
「信仰」によって、私たちも「見えない方を見ているようにして、忍び通す」ことができるのです。
そして、「見えない方を見ているようにして」ご臨在のうちに憩うこともできるのです。
私は「見えない神」を信じます
主は、今、ともにおられます
私は信仰によって歩みます

