詩篇86:11
主よ あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
心の貧しさに気がつくならば幸いです
ダビデは「私の心を一つにしてください」と祈っています。
かつてダビデは「一つのことを主に願った」と言いました。それは「主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見ること」です。
ダビデの「一つのこと」は、賛美の歌詞にもよく使われていますね。私も、この御言葉が大好きです。
しかし、このように「熱心に主を求めているダビデ」が、切なる思いで「心を一つにしてください」と祈り求めているのも、また事実なのです。
ダビデの「心」は、時々「バラバラ」になってしまうのだろうと私は思います。
心を尽くして「主を愛す」という言葉に「偽り」はないのです。ダビデは「真心」をもって「主を愛し」ていました。けれど、そのようなダビデの心に「別の何か」が共存しているのです。
「一つのことを主に願った」というダビデと、ウリヤを殺すように指示するダビデが「同一人物」であるとは、信じられない気がしますよね。
けれど「人」とは、そのような者です。自分では「どうしようもない」のです。
そして、そのことに気がつく人は「幸い」なのです。
ダビデは、経済的困窮を訴えているわけではありません。ダビデは「私の心は貧しい」と言っているのです。
「心の貧しさ」に気がつく人は幸いです。
私たちは「多ければ豊かだ」と思います。しかし「心」に関しては「少ないことが豊か」であると私は思います。
「少ない」と言うよりは「一つ」であることこそ「豊か」であり「幸い」なのです。
「心を一つにする」とは「心を結び合わせる」と訳すこともできます。新共同訳では「一筋に」と訳されています。
私たちは、自分の「心」を分割して「あれやこれや」と配ってしまいます。「心配」とは「心を配る」と書くのです。配った心は「一つ」にまとめなければなりません。
「あれやこれや」を手離しましょう。
「世をも世にあるもの」にも心を配ってはなりません。
時々、自分の心が「過剰に暴走」するようなことがあるかもしれません。
「昨日の自分とは別人のようだ」と感じることがあるかもしれません。
そのようなときこそ、ダビデのように祈り求めましょう。
「主よ、私は心の貧しいものです。私の中に多くの心があるようです。どうか、一つにしてください。ただ、あなたを一筋に思うことができますように」
私たちは「主こそ幸いです」と告白しながら歩む者です。
主よ、私の心を一つにしてください
私が、あなたを一筋に思うことができますように
あなたこそ、私の幸いです

